涜書:ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』

読書会があるというので、再訪。http://gjks.org/?p=216
というか、この本は斜め読みした記憶しかない。1989年の本。

ちなみに──どうでもいいことだが──この本は、『社会の学』(1990、ISBN:4588009273)あたりからルーマンが頻用し始める「再記述」なる言葉の直接の典拠である。id:contractio:20050620#p1
ローティの参照元はヘッセ。id:contractio:20070411#1176303506
ヘッセの参照元は、アンスコムであろう。『インテンション―実践知の考察

ついでに『言語はなぜ哲学の問題になるのか』も併せて。

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

Contingency, Irony, and Solidarity

Contingency, Irony, and Solidarity

http://books.google.co.jp/books?id=vpTxxYR7hPcC

第I部 偶然性

  • 第1章 言語の偶然性
  • 第2章 自己の偶然性
  • 第3章 リベラルな共同体の偶然性

第II部 アイロニズムと理論

第III部 残酷さと連帯

  • 第7章 カスピームの床屋──残酷さを論じるナボコフ
  • 第8章 ヨーロッパ最後の知識人──残酷さを論じるオーウェル
  • 第9章 連帯
第1章 言語の偶然性

 言語をめぐるこの線にそった考えは、ライルとデネットの考え

つまり心に関する専門用語を使っているとき、さまざまな状況下において ある有機体が、どのようなことをしたり述べたりする傾向があるのかを予測する to predict what an organism is likely to do うえで、私たちにとって有効な語彙──「志向姿勢」とデネットが呼んだものに特徴的な語彙──を単に使用しているに過ぎないのだ、という考え

に類似している。ライルが心についての非還元論的な行動主義者であったのと同様、デイヴィドソンは言語についての非還元論的な行動主義者なのである。

両者とも、信念や指示について語る際に、その行動上の対応物を提示しようという欲求をもっていない。その代わりに両者とも、次のように述べている。

「心」や「言語」という用語を、自己と実在のあいだにある媒体の名称としてでなく、単純に、ある種の有機体に対処しようとするときに、ある語彙を用いることが望ましいという合図を表している旗 として、考えてみよう、と。

Think of the term "mind" or "language" not as the name of a medium between self and reality but simply as a flag which signals the desirability of using a certain vocablary when trying to cope with certain kinds of organisms.
  • ある有機体に──この点に関しては、ある機械に、でもいいのだが──心があると述べることは、ある目的にとって、それが信念や欲求をもっていると考えたほうがうまくゆくと、いっているにすぎない。
  • ある有機体が言語使用者であると述べることは、それがつくりだすマークや音声と、私たちがつくるマークや音声とを組にすると、それが将来においてどう行動するかを予測し制御するにあたって有効な戦術になることがわかった will prove a useful tactic in predicting and controlling its future behavior 、と述べているにすぎないのだ。

 心に関してライルとデネットが、そして言語に関してデイヴィッドソンが発展させている、このようなヴィトゲンシュタイン的な態度は、心と言語が宇宙のその他の部分と結んでいる関係についての問いを、すべて[言語による実在の]再現[言語による自己の]表現の適切さについての問いとは異なる因果的な問いにすることによって、心と言語を自然化しているのである。[p.35-36]

This Wittgensteinian attitude, developed by Ryle and Dennett for minds and by Davidson for languages, naturalizes mind and language by making all questions about the relation of either to the rest of universe causal questions, as opposed to questions about adequacy of representation or expression. [p.15]

causal」は、一方では「再現や表現」と対比されて、他方では「predict」とペアで、登場しているように読める。
しかし「再現や表現でないからには因果的である」などということはなかろうし、我々が他人の振る舞いに対して行うのは たいていの場合(〜たまにしか)「prediction」ではない。

ふつうは、「期待」したり「先を読ん」だり(……以下略)などなど、いろいろなことをするのである。

逆にいうと、ここに登場する ひとの振る舞いに関する「因果的」な見方は、状況への対応・準備・読みなどなどを「予測」へと狭めてしまうことと相即的であるように思われる。


前提の多い議論だな。

第2章 自己の偶然性

 トリリングのように、心は詩を創作する能力である と述べてしまうと、私たちは哲学へ、そして人間の本有的特性という考えへ立ち戻ったかにみえるかもしれない。とくに、ギリシア人が「理性」に託した役割を「想像力」に託していた、人間本性をめぐるあのロマン主義の理論に立ち戻ったかのようにみえるかもしれない。しかしそうではない。ロマン主義者にとって「想像力」は、私たち以外の何かとの絆 だったのであり、それは、私たちはもう一つの世界からきてここにいるのだ、ということの証明であった。それは表現の能力だった。しかしながら、幾分かは余裕をもった言語使用者である──つまりファンタジーをもつ能力と時間をもっている──私たちすべてが共有しているとフロイトが考えたものは、メタファーを作り出す能力 なのである。
 第1章で要約した、メタファーに関するデイヴィドソンの説明によれば、メタファーはそれがつくりだされるとき、たしかに以前から存在していものがその創出の原因となっているのだが、けっしてそのようなものをメタファーが表現する のではなかった。フロイトにとってこのような原因は、もう一つの世界の想起ではなく、人生の初期にあった或る特定の人物や対象、言葉に注がれる、或る特定の強迫観念を生み出すような精神の集中なのである。ある種の特異なファンタジーをすべての人間存在が、意識的または無意識的に演じているのだとみなすことで、次のことが可能になる。すなわち、各々の人間の生における(動物的な部分と対比される)特殊人間的な部分とは、後の人生において出会う、ありとあらゆる特定の人物、対象、状況、出来事、そして言葉を、象徴的な目的のために利用する能力なのだ、とみなすことが可能になる。この過程は結局のところ、以上のさまざまな事柄を再記述し、そうすることにより、そのすべてについて「私はそう欲した」と語ることと、同じなのである。

 この視点からみるならば、知識人(言葉や映像的あるいは音楽的な表現形式を、右に述べたような目的に使用する人)というのは、特殊な事例にすぎない。つまり、他の人びとだったら配偶者や子供、職場の仲間、商売道具、取引上の現金勘定、家庭にためこんだ蓄財、耳を傾ける音楽、参加や観戦をするスポーツ、あるいは仕事にゆく途中で目にする木々を〔象徴的に〕利用しておこなっていることを、知識人はマークや音声でおこなっているに過ぎないのである。

ある言葉の響きから、一枚の葉の色や皮膚の一部の感覚にいたるまで、あらゆるものが一人の人間存在の自己アイデンティティ感覚を劇化し、結晶化させるのに役立つかもしれないことを、フロイトは示したのだ。なぜなら、このような事柄のどれであっても、普遍的で私たち全てに共通なことだけができる、あるいはすべきだ、と哲学者が考えて来た役割を、個人の生のなかで果たすことが可能だからである。こうした事柄は、私たちのすべてのおこないが生み出す盲目の刻印を象徴化することができる。こうした事柄が、どのような形であれ表面上はランダムなひとまとまりになると、ある一つの生の調子をすえることが可能になる。そのようなひとまとまりであれば何であれ、ある一つの生がそれに奉仕することになるような絶対的命法──しかもせいぜいのところ、ただ一人にとってのみ意義あるものなのだが、それにもかかわらず絶対的である命法──をすえることが、可能なのである。[p.77-78]

〈表現/因果〉が再登場。

たとえば性的倒錯、極端な残酷さ、馬鹿げた脅迫観念、そして躁的な妄想といったことに例示される出来事に存する「独特な理想」の理解を可能にすることで、彼[=フロイト]は 特に扱いづらい盲目性の事例の克服を促している[...]。フロイトのおかげで、私たちは以上の出来事のそれぞれを、倒錯者、サディスト、または狂人の私的な詩である、とみることができる。つまり、私たち自身の生と同じように、豊かに織り込まれたもの、「精神的努力の記憶を甦らせる」ものだと、みることができるのだ。道徳哲学が極端で非人間的・非自然的だと記述したものでさえ、私たち自身の行為との連続性をもっているということを、フロイトを通じて理解できる。しかし、

そしてこれは非常に重要な点なのだが、フロイトは、以上のことを伝統的で哲学的な、還元主義的方法によって遂行しているわけではない。

  • 芸術とは 本当は 昇華であるとか、
  • 哲学大系の構築はたんなるパラノイアであるとか、
  • 宗教とはおっかない父親に関するたんなる錯乱した記憶である

などと、彼は述べたりしない。

  • 人間の生とは、たんなるリビドー・エネルギーの継続的な再伝達なのだ、

と彼は述べていない。実在と現れの区別を発動することに、或るものは「たんに」あるいは「本当に」、他のものとまったく異なっていると語ることに、彼は興味がない。フロイトが望んでいるのは、他のすべての事柄の横に並べて残しておくための、事柄に関するもう一つの再記述、もう一つの語彙、そして、たまたま利用され、その結果 時宜通りにとられるようになるメタファーをもう一組提供することだけなのだ。[p.81-82]

いくらなんでも持ち上げ過ぎ=我田引水過ぎではあるまいか。

第3章 リベラルな共同体の偶然性

p.104 には「合理的な確信」/「理由づけによってではなく、原因によってもたらされた確信」なる対比が──「伝統的なもの」と形容されて──登場。

ローティ自身による第一章の一行要約 [p.104]:

  • 結局のところ、問題なのは信念ではなく語彙が変更されること、真理値が指示されることではなく 真理値候補が変更されることなのだ。

言語ゲームの内部で、つまり何が可能で重要であるのかに関する一連の合意の内部で、〈信念を支える理由づけ〉と〈信念を支える理由づけではない原因〉とを、私たちは有効に区別することができる。[p.104

どうやらローティには、

  • 「原因-因果性-偶然性-歴史性」vs「理由-合理性-必然性-非歴史性」

という連想的対比があるようだ。

だけど、必然性との対比で偶然性について語るような議論を読んでも、偶然性について何か言ってもらった感じがしないんだよね。