『偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性』のついでに。
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A 観念の全盛期B 意味の全盛期C 文の全盛期
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『偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性』のついでに。
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A 観念の全盛期B 意味の全盛期C 文の全盛期
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タルスキがその初期に発表した論文の多くは、ドイツ語で書かれており、ドイツ語には英語の「sentence」「statement」「proposition」にあたる言葉は「Satz」という言葉一つしかない。[p.211]
オーストラリア発見の旅の途中で、キャプテン・クックに率いられた水夫たちの一行は、一匹のカンガルーをつかまえて、その奇妙な動物を船にもちかえった。その動物の名前については誰一人知る者がいなかった。そこで何人かがもう一度陸へひきかえして、原住民にたずねた。彼らは船に帰ってきて仲間にこう伝えた。「これはカンガルーである。」 何年もたってからわかったのであるが、土民たちが「カンガルー」と言ったとき、彼らは動物の名前を告げていたのではなくて、船員たちの質問に「あなたは何と言ったのですか」と聞き返していたのであった13。[p.236]13 The Observer (London), magazine supplement for 25 November 1973.
ポール・ロワイヤルの論理学では こう言われていた。いくつかの言葉は他の言葉によっては説明されないくらい非常に明晰である。というのも、より明晰でより単純な言葉は他のどこにもないからである。「観念」はそうした言葉の一つである。たしかに我々の時代にも観念という言葉は存在しているが、そこには、ここで言われるような性質はどこにも見当たらない。[p.249]
技術的な細かい点を別にすれば、今日の哲学者たちは「文」について、ちょうどポール・ロワイヤルの人びとが「観念」について言ったことと同じことを、口にするだろう。すなわち、それはあまりにも単純なので 定義不可能である。文は、真理、意味、実験、実在などを説明する際に基礎となるような、単純な対象物と考えられている。[p.249]