清塚『フィクションの哲学』/ルーマン『社会の芸術』

引き続き。

フィクションの哲学

フィクションの哲学

社会の芸術 (叢書・ウニベルシタス)

社会の芸術 (叢書・ウニベルシタス)

『フィクションの哲学』構成

「虚構に関する発言」の統語論第1章 フィクションの統語論
「虚構に関する発言」の意味論第2章 フィクションの意味論
「虚構に関する発言」の作者による提示第3章 主張とミメーシス
第4章 フィクションの言語行為論
「虚構に関する発言」の受容第5章 ごっこ遊びの理論
第6章 視覚的なフィクションをめぐって
作品世界とは何か
→「虚構に関する発言」は、どのような場合に
「フィクションにおける真理」の表現
とみなされるか
第7章 フィクションのなかでの真理
  1. 世 界: 2&3節
  2. 提示側: 4節
  3. 受容側: 5節


『社会の芸術』
第4章「芸術の機能と芸術システムの分出」

II
  • 芸術における「前適応的進歩」の領域としての「装飾」[p.233]
  • 芸術は知覚を用いる。→芸術の機能が「知覚」と特別な関係を持たなければならない。[p.234]
    • 「驚き」と「再認」の組み合わせ。[p.235]

芸術作品は 知覚可能性を利用すると同時に高めもする。要するにその可能性を活用=搾取するわけだ。そうすることによって、この[驚き/再認という]区別の統一性を呈示しうるのである。[...] 驚きをもたらす楽しみについては古代から語られてきた。このテーマは今述べた差異の統一性に関連しているのである。それはすなわち 驚きと再認が相互に増幅しあいうる というパラドックスに関連するということである。そこで一役を担っているのが、ますます極端になっていく形式である。その形式のうちで今述べた問題が、世に知られなじまれたものを用いることなしに、反映されているのである。たとえば、[...]。しかしいずれの場合でも より詳しく分析してみれば、反復を同定することが可能になるのは知覚によるのであって概念的抽象によるのではない ということがたちどころに明らかになる。芸術が追求するのはこの問題へと特殊化すること である。またそれこそが 芸術を、知覚が受けた軽い刺激を処理するという日常的でありふれた事柄から際立たせるのである。[p.235-236]

  • 世界 キタ─wwヘ√レvv~【゚∀゚】─wwヘ√レvv~─ !!!!!
[宗教は知覚されえないものにかかわる点でこそ際立つし、その点で芸術とは区別されなければならないわけだが、]しかし、芸術についてはさらにこう問わねばならない。芸術の機能を、環境の特殊な断片を包含することに、つまり近くとコミュニケーションの差異をコミュニケーションのうちに≪再参入≫させることにあると見るだけで充分なのだろうか。むしろ、

芸術の機能は、芸術と世界との関係そのもののうちにあると考えねばならないのではないか。すなわち芸術の機能は、芸術が世界の中で独自の現実を分出させ、それを自己のうちに包含する様式のうちにあるのではないか。芸術が世界そのものを(ここの目立つ点をというだけでなく)驚きをもたらす冗長性というパースペークティヴのもとで記述することによって達成しうるのは、まさにそのことであるように思われる。[p.236]

    • 世界の二重化:言語や宗教との違い

 それゆえに芸術作品は、慣れ親しまれた現実からは区別される固有の現実を確立する。

芸術作品は知覚可能であり、その点だけによってすでに、否定されえない独自の現実としての性格をもつ、しかし

芸術作品はさらに加えて意味を用いることにより創造的な、あるいは虚構的な現実を構成しもする。世界は、現実的な現実 と 虚構的な現実 とに分裂させられる。

これは言語のシンボルを使用することによっても、また客体を宗教的に神聖化することによっても生じるが、しかしそれらの場合は別の仕方によっていることになる。

芸術の機能は明らかに、この分裂の意味にかかわってくる。

したがって芸術の機能は単に、とりあえず目の前に存在するものを、さらなる客体(≪美しい≫それであろうが)によって豊かにするということにあるのではない。

 芸術の創造的世界はひとつの場所を与えてくれる。そこから、別の何か を現実として規定できるのである。[...] [なるほど、言語や宗教にもこうした現実の二重化を行うことは出来るが、]しかし芸術派、創造と経て現実へと向かうこの迂回路に、新たな側面を付け加える。それはこの 二重化を、知覚可能な客体の領域において実現することによってである。[...] 言語や宗教とは異なって 芸術は製作される。そこには形式選択の字中途制限が含意されており、それは言語と宗教には無縁なものである。おそらくギリシア芸術固有の独創性は、考えられたことを知覚可能に する=作る(machen) 技術的・創造的現実化を基礎としたことにあるのだろう。それは宗教に対する越権行為ではないかとの疑念はあえて無視されたのである。[p.236-237]

それゆえに?

  • 二重化再論

[芸術作品による世界の二重化は、物のかたちで行われる。] だからこそ芸術派「コンセンサスか不同意か」、あるいは「現実を肯定するか否定するか」という決定を強制するのを放棄しうるのである。芸術派理性的な根拠付けを必要としない・そしてまた芸術の説得力は知覚可能なものの領域において展開されるがゆえに、根拠づけを必要としないということも 知覚可能になるのである。だからこそ、旧来の学説において芸術作品の鑑賞がもたらすとされていた≪満足≫(Vergmügen)のうちには、他人の不幸を喜ぶという要素が含まれていたのである。理性によって世界へと到達しようとする不毛な努力をあざ笑う、というわけである。
 かくして、可能なものの領域における自由度がますます増大するとともに、見出されうるはずの秩序に対する距離も増大していく。われわれが論じているのはおそらく、そこにおいてなおも秩序の可能性を発見し実現しようとする試みについてなのである。初めて芸術が 独自ノ(sui generis)現実として省みられたのは、古代ギリシアにおいてであった。しかしそこで取り組まれていたのは、宗教・都市政治・新たな貨幣経済・文字によって固定された額が分裂したことから生じた意味問題を受け止めることだったように思われる。ダントも述べているように25、そこでは哲学と並行する発展が生じていたのである。[p.239-240]