涜書:内藤莞爾『フランス社会学断章』『フランス社会学史研究』

@lematin さんと @ponQ さんの呟きを横目にみながら、マルセル・モースの見解を確認すべく──本棚の手の届くところにあった本を──チラ見。

追記:せっかく読んだので、ちょっとコメントを書きました:


1985年、1988年の著作。

  • まえがき
  • 第1章 デュルケム学派の実像
  • 第2章 初期デュルケムにおける宗教概念の形成
  • 第3章 晩年のデュルケム
  • 第4章 デュルケム学派における一般社会学と文明
  • 第5章 モース社会学の構図
  • 第6章 「贈与論」への道
  • 第7章 モースにおける「全体人」の形成
  • 第8章 「贈与論」以後
全体的社会的事実と全体的人間

ところで[デュルケムとモースの]この差異については、すでに定説らしいものが存在している。

すなわち、

  • デュルケムは、社会的諸事実にそれぞれの〈個性〉を認め、宗教現象・経済現象等々を区別して、これらを宗教社会学・経済社会学等々のセクションに配分した(実在主義)。
  • これに対してモースは、社会的事実の〈意味〉に注目して、同一の事実も さまざまな意味をもつものとした(象徴主義)。〈全体的社会事実〉(fait sociaux totaux)は、この多意味に注目しての発言である。

また、

  • デュルケムは 個人を社会の被造物とした(反心理主義)のに対して、モースは人間を生理・心理・社会の三次元からなるとした(容心理学主義)。〈全体的人間〉(homme total)は、この構想の所産である。

 もっとも、両人のこうした差異については、仔細に眺めると、なお詰めの甘さを残している。が、大綱においては、私も賛成である。[p.109]

「実在主義」とか「象徴主義」とか いちいちネーミングが気にくわねぇ。

「同一の事実は さまざまな意味をもつ」も、「人間は n層からなる」も、それだけでは「全体」という言葉を使う理由は まるで与えないよね。
そういえば「全人 Whole Man 仮説」ってな言葉もあったね。あれも同じね。google:全人仮説

デュルケムの社会学構想

p.112

特殊社会学社会形態学
社会生理学
一般社会学


一般社会学構想。1900年の論文「社会学とその科学的領域」について。

[...] この論文では、ジンメルの形式社会学をターゲットとして、これとの対照の形で時節を展開しているが、おここでは、社会形態学・社会生理学のニ部門が確定している。そして この二つが特殊科学であるのに対して、第三の部門として一般社会学を提唱する。その性格は、

  • 社会形態学・社会生理学が〈種〉(espece)であるのに対して、一般社会学を〈属〉(genre)の学問

として規定する。

ところでこの立場は、一見すると、動物学・植物学等、生物諸科学の〈種〉に対して、生命一般を対象とする生物学を属とするのと似たようにもとれる。しかしそうした抽象化のレベルのことではない。

それは部分現象に対する全体現象という差異に求められる。すなわち対象の差異である。というのは、

  • 社会形態学は人口・集落等、社会生活の基体を、
  • 社会生理学は宗教事実・経済事実等々を扱うけれども、

これらは部分現象にすぎない。だが、これらの諸事実は関連しあって、ひとつの統一=全体をなしている。これが前者を〈種〉、後者を〈属〉としたゆえんである。この統一=全体は、その諸要素をばらばらにしても、捉えることができない。そしてこれをおこなうのが一般社会学だ、とするのである。たとえていえば、化合物の現象である。[p.113]

ここまでは比喩。

比喩からもう一歩。ミルの議論を手がかりに進むデュルケム(←あんまり進んでない)。

[p.114]

1913年。デュルケーム&モース共同宣言。

[p.118]

→そしてデュルケム社会学体系の崩壊へ。

モースにおける「一般社会学