sola研究会@芝浦
看護研究 ISBN:4910024110219
2011年02月号 (通常号) ( Vol.44 No.1)
- 「現象学的看護研究とその方法 新たな研究の可能性に向けて」榊原 哲也
- 「開かれた現象学的研究方法」松葉 祥一
- 「理解について 質的研究の前提として」家高 洋
- 「患者を1人の人として理解する Eさんの生活経験の現象学的記述より」石田 絵美子
- 「看護ケアの実践知 「うまくできない」実践の語りが示すもの」西村 ユミ
- 「「痛み」の理解はいかに実践されるか 急性期看護場面の現象学的記述」西村 ユミ・前田 泰樹
- 「潜在的な視線触発と純粋な超越論的テレパシー 初期西村ユミのポテンシャル」村上 靖彦
【新連載】看護研究の基礎-意義ある研究のためのヒント・1
- 「看護研究とそうでないもの」坂下 玲子
- http://www.igaku-shoin.co.jp/journalDetail.do?journal=34341
- 購入:http://www.fujisan.co.jp/product/423/b/411936
仮説メモ:
ある種の哲学者たちは、「ふるまい(をみる)」とか「やりとり(をみる)」とか言えばいいところで、──「身体」なる特別な哲学的語彙に訴えることにより──「身体(をみる)」なる哲学的表現を用いるのではないか。
だとしたら、この話法を支えている論理とはなにか。
・・・常識的に考えて(JK)おそらくそれは、「意識」との対比・関連性でもって物事を捉えてしまうことによるのだろう。
・・・常識的に考えて(JK)おそらくそれは、「意識」との対比・関連性でもって物事を捉えてしまうことによるのだろう。
もしこの想像が正しければ。 そのような哲学者たちは、一生懸命に「身体」にこだわって あれこれを論じることによって、自らの 「意識」へのとてつもないこだわりを、一生懸命に示していることになろう。
しかしこれはおかしい。
我々は、生活の中で──他人との さまざまな やりとり の中で、また他人の ふるまい をみるときに──「他者の身体」(なる なにか特別な哲学的対象)を見ているわけではあるまい。
私が見るのが──色彩ではなく──色のついた事物であることや、私が聞くのが──音響ではなく──歌手の歌である のと同じように。
議論を実際に具体的にすることによってではなく、その代わりに、「もっと具体的に!」とかけ声をかけることでもって、議論を具体的なものにしようとする哲学的マジック。