書き込みすぎたのでエントリに格上げ。
第1節 コーエン/オマリー
- ホロウェイ&ウィーラー(1996/2002)『ナースのための質的研究入門―研究方法から論文作成まで』asin:4260330608
第2節 ジオルジ
- ワトソン(1988)『ワトソン看護論―人間科学とヒューマンケア』 記述的現象学的方法論の取り込み
第3節 トゥームズ
- トゥームズ(1992)『病いの意味―看護と患者理解のための現象学』 〈自然主義的態度/人格主義的態度〉
第4節 ベナー&ルーベル
- ベナー&ルーベル(1989/1999)『ベナー/ルーベル現象学的人間論と看護』 ドレイファス(asin:4782801335)に依拠
- 榊原哲也(2008)「看護ケア理論における現象学的アプローチ―その概観と批判的コメント」[pdf]
- フッサール研究会(2008)「フッサール研究 第6号 特集「応用現象学の展開」」第II部:ケアの現象学 http://husserl.exblog.jp/9708120/
「認識論的事実/存在論的洞察」[p.11] ‥‥‥?????
第5節 西村ユミ
- 「植物状態患者と看護師との、はっきりとは見て取れない関係」を明らかにするために、〈人間の身体同士が「間身体性(intercorporeite)」という在り方で相互に交流している〉とするメルロ=ポンティの思想を援用する [p.12] もの。
「プライマリーナースによってすら意識的な自覚ができず、それゆえ 明確な認識論的手がかりの欠けた、それでいてナース自身によって確かに生きられている前意識的な層での身体的経験」[p.12] ‥‥それゆえ??????
しかし、明確な認識論的手がかりを欠いた「前意識的な層」における身体的経験という事象に、いかにして迫っていくことができるのだろうか。西村はインタビューにおける「対話」に注目する(西村、2001、p.210f)。
- [c1] 西村の事象である前意識的な〈身体〉固有の次元は、「常に動的に生み出され続けている」(‥)ような間身体的な次元であるが、
- [d1] 西村によれば、「対話」においても、「自分の語ったことなのか、相手の語ったことだったのか、その区別さえつかないほどに引き込まれ夢中になったそのとき」、「主客未分化」で間身体的な生きられた経験が生成する(‥)。
- [c2] 間身体的な次元は絶えざる生成であるから、プライマリナースとの「対話」においては、このナースと植物性状態患者との間身体的経験に立ち戻ることは決してできないが、しかし
- [d2] 「対話」において主客未分化で前意識的な間身体的次元の同じ深みに入っていくことによって、植物状態患者とプライマリナースとの「対話」において新たに「生成される」(‥)。
このようにして西村は、
- [c3] 明確な認識論的手がかりを欠いた「前意識的な層」における間身体的経験という事象に、
- [d3] 「対話」を通じて迫っていくのである。
さらに西村によれば、このようにして捉えられた前意識的で間身体的な生きられた経験の記述は、「読み手との対話を通して解釈され、新たな意味として捉えなおされ、経験に織り込まれていく」。つまり、読者もまた記述を読み解釈するプロセスの中で、前意識的で間身体的な経験の次元を呼び覚まされ、この経験を「自己の経験として生きる」(‥)。こうして間身体的な次元の経験が、さらにあらたに生成されていくのである。
無茶言いやがって。
なんで「対話」が出てくるのか考えてみると。「意識されていない」と「主客未分化」を等値したうえで、そこに「主客があって、かつ、それが未分化になりうるものといえば対話である」という前提をつないだからであるな。しかし この前提はどこから出てきたんだ?
まぁそれはさておき。
こうした議論をみると、こうたずねたくなる: 他人と居合わせたりお喋りをしているときであれ、独りでなにかをしているときであれ、道具を使ったり機械を相手にしているときにであれ、たいていの場合の我々の振る舞いは、──ごくごく狭い部分に意識のフォーカスがあたることはあっても──その大部分は、「意識されない」仕方で・半ばオートマティックな仕方で 行われている。では、
まぁそれはさておき。
- [Q] こうしたありふれた振る舞いには、「間身体的な次元」は伴われないのだろうか。
- [A1] もし伴われないのだとすると。
「間身体的な次元」なるものは──なにかとても神秘的な事柄であるように思われて来てしまうことはさておくとしても──、我々の暮らしの大部分にはほぼ関係のない特殊な事柄だ、ということになる。ならばまずは、その特殊な事柄が、どんなときにどんな事情でどのようにして我々の社会生活に関係のあることとなるのかについての議論を、先に提示していただかなければなるまい。研究はその地点から始められる必要があろう。 - [A2] 伴われるのだとすると。
それならば、研究は、そうした(独りでのものであれ他人とかかわったものであれ)ありふれた振る舞いの、どんなものからでも始められてよいはずだろう。言い換えるとこの場合、なぜ「対話」なるものが──それが何であるのか そもそも謎なのであるが──特別扱いされるのか、その理由がわからなくなる。
しかしそのときには私はこういいたい。「なんでどれかを特別扱いしなくちゃいけないんですか?」
逆に考えてみよう。
なぜ「対話」と呼ばれる何か を特別扱いしなければならないのだろうか。──そのように問うてみると、上掲引用文のような 一見「哲学的」に見える議論が、実はもっぱら、研究上のプラグマティックな難しさに制約されているのではないか、という疑いが生じてくる。つまり、「対話」なるものに優先的な扱いを施す論者は、単に、「対話」(において話されている内容)を見る以外にどうやって研究したらよいのかわからないからそうしているのではないか、ということ。これである。 ・・・といった勘繰りはさておき。
5節の最後の段落[p.13]で指摘されているのは「技能-と-理解」の関係の問題だろう。この指摘はもっともなものであるように思われる。しかしそれはなぜ「認識論的」と呼ばれているのだろうか。
というかなぜ著者は〈認識論的/存在論的〉という区別を使うのだろうか。(←再訪)
別言すると、著者はここでこそ、まさにそのことを論じた著作──『存在と時間』──を引き合いに出してよかったはずである。(しかしそうしてしまうとやはり、「技能-と-理解」というこのトピックを気軽に「認識論的」と呼ぶことはできなくなってしまっただろうが。)