ハッキング(1986)「人々を作り上げる」の三つの目的について

(2015.6.18 追記)その後邦訳が刊行されました:『知の歴史学


冒頭。
この論文の三つの目的:

 性的倒錯者は19世紀後半以前に存在していたのだろうか? アーノルド・デイヴィドソンによれば、

答えは否 …… 性的倒錯は、人並みはずれて鋭い観察力を持った心理学者に見つけたもらうのを自然のいたる所に隠れ潜んで待っている病気ではない1

デイヴィドソンは、いつの時代にも奇妙な人々がいたということまでも否定しているのではない。彼は病気としての性的倒錯と、病人としての性的倒錯者が19世紀後半に創られたものであると主張しているのだ。デイヴィドソンの主張は現在広く普及しているものの一つであり、私が「人々を作り上げること」(making up people)と呼び慣わしているものについて説明してくれている。


 私には三つの目的がある。

  • まず第一に、デイヴィッドソンのもののような興味深い主張をよく理解したい。
  • 第二に、「人々を作り上げること」の一般的な理論があり得るのか、それとも各々の事例は個別的すぎてそれぞれが一般化不可能な物語を要するものなのかどうかを知りたい。そして
  • 第三に、「人々を作り上げる」というこの概念が、「個人であること」についての我々の概念自体に、どのように働きかけるのかを知りたいのである。
私の関心が哲学的で抽象的であることに注意されたい。私は、我々が何であるかということよりも、人々がなんであり得るかということについて注目していく。私は動的唯名論(dynamic nominalism)と名付けている哲学的概念を想定し、通常の人間同士の相互影響の力学についてはあまり考察を行わないであろう。

「第一の課題」への回答

→第三の問に 概ね同じ。

「第二の課題」への回答

→「一般的な理論はない」

「第三の課題」への回答

このあたりが解答の焦点でしょう:

動的唯名論の主張は、
The claim of dynamic nominalism is
官僚やら人間本性の研究者やらにより次第に認識されるようになった ある種の個人がいる、というのではなく、むしろ
not that there was a kind of person who came increasingly to be recognized by bureaucrats or by students of human nature,
次のようなものである。すなわち、「ある種の個人」は、その「種類」自体が発明されているのと同時に生じるのである。
but rather that a kind of person came into being at the same time as the kind itself was being invented.
我々による「分類」と我々の「部類」とは手に手を携えて現れようと共謀し、互いに他方を扇動しあうような場合があるのだ。
In some cases, that is, our classifications and our classes conspire to emerge hand in hand, each egging the other on. (訳212頁下)


どうして動的唯名論が個人の人格という概念に影響をおよぼすのだろうか?
How might a dynamic nominalism affect the concept of the individual person?
一つの答えは「可能性」に関連するものである。
One answer has to do with possibility.

  • 我々が誰であるか ということは、
    Who we are is
    • 我々が 過去・現在・未来に何をするということだけではなく、
      not only what we did, do, and will do,
  • 我々が何をした可能性があり・何をこれからする可能性があるかということでもあるのである。
    but also what we might have done and may do.
  • 「人々を作り上げること」により、「人格というもの」(personhood)にとっての可能性の空間を変容してしまうのだ。
    Making up people changes the space of possibilities for personhood.
死人ですら、彼らの為した行為以上のものである。というのも、我々は その人の終えられた人生を、その当時の可能性の圏内で理解するからだ。だが、我々の可能性も、[一方では]無尽蔵ではあるのだが、[他方では、過去の人たちがそうであったのと]同様に閉ざされている。

(訳 121上)

さて。
「文章のふつうの読み方」に従うなら、第三の課題の回答は簡単である。

明示的かつごく形式的に記してみれば、
  • 「人々を作り上げること」は、ひとが「何者かである」ために必要な可能性空間のあり方を変えてしまう
ということ、これであろう。……この文が何を言っているのかはさておき。

なにしろ本人が「答えは」と書いているくらいなのだから、この箇所が「答え(の一つ)」であることは間違いない。

そのあと*に続く議論は、「こういうやり方で「可能性」について云々しようとすると、どんな小難しい問題**に関わることになるのか」の敷衍であろう。
* 「もしもセクシュアリティについての唯名論者の命題が正しかったとしたら、〜」以下かなり先の段落までずっと。
** 「ある個人になるための可能な諸方法が、時に投じて生じたり消滅したりするのだ、と主張することは 一般にどのようなことを意味しうるのか?」


なので、これが簡単な話には見えないとしたら──私には簡単には見えないが──理由は別のところにある。私が思いつく理由の一つは、「個人であること」なる表現でもって 何を述べているのか判明でない、ということである。
それが判明でないのに、「「人々を作り上げること」と「個人であること」とはどう関係しているか」という問いを一生懸命考えてみても、何が答えなのかはっきりするはずがない。
・・・思うに、この話は、ほんとうなら こうなっていて欲しいのである:

  • a. このシンポジウムは「個人主義」がテーマだ。「個人」という表現は いろいろな使い方をされるけれども、私は、その内の〜〜〜という側面について論じる。
  • b. 私が持ってきたネタは、私が「人々を作り上げる」と呼んでいる現象に関わるものだ。
  • c. それは a の意味での「個人であること」と、xxxx の関係にある、云々。


しかし この論文の議論には「a」に相当する明確な議論がない。だから、第三の課題が「どういう問い」なのか、そもそもはっきりしていない──そうである以上は、答えも判明ではない──ように見えてしまうように思うのであった。


逆に そのことに気がつくと、a に相当するものが何であるかは、むしろ はっきりしている。
上記引用文の近辺(だけ)から探すと、ハッキングは、「個人である」という表現を、たとえば

  • 「誰かである」(誰かが しかじかのひとである)
  • 「なんらかの類のひとである」(なんらかの類に属するひとである、何らかの類に述語付けられるひとである)
  • 「ある種類の個人である」[訳 120]

といった表現と互換的に使っているのである。あたかも、「個人である」という表現は このように使うのが当然であるかのように。
しかし、こうした語用(m) は、我々が「個人」という言葉でもって 想起するだろう あれこれのこと(n) 全てを カバーしてはいない。
にもかかわらず──片方ではハッキングに付き合いながら、もう片方では──(n に相当する)あれこれを念頭に置きながら、問いの三について考えるなら、議論は紛糾するに違いない。