イアン・ハッキング『歴史的存在論』

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第6章「人々を作り上げる」。pp. 223-224
引用文冒頭が、「個人」に関する問いで始まっているのは、これが「個人」をテーマにしたシンポジウムにおける講演だったから。

動的唯名論は、個人という概念にいかなる影響を与えうるだろうか。

「可能性」という観点から、1つの答えを与えることができる。我々が何者であるかという問いは、

  • われわれがこれまでにしてきたこと、今していること、これからすることのみを問うているのではなく、
  • われわれが過去に何をしえたか、今そしてこれから何ができるかをも問うているのである。

「人々を作り上げる」ことによって、「ある人物であること」の可能性の空間自体が変容するのだ。

すでに亡くなって、これからの可能性が閉ざされた人についても、その人が実際になしたことだけでなく、その人に対して生前開かれていた可能性の空間を視野に入れなければ、その人生の意味を理解することができないのである。なぜならその人物の生涯は、彼が行きた時代における可能性の範囲内でのみ理解することができるからだ。しかし

われわれにとっての可能性も、数え尽くすことが出来ないとはいえ、やはり限定された範囲を持つ。性について唯名論者の意見が正しいとすると、19世紀より前に異性愛者という種類の個人であることは まったく不可能だったことになる。というのも、そのような個人の種類は選択の 対象として存在しなかった からである。それは何を意味しうるだろうか。ある人物になるための可能な仕方は、時代ごとに生じたり消え去ったりすると主張することは、一般的に何を意味しうるだろうか。このような問に際して、われわれは可能性という観念そのものに注意を払わなければならない。