https://contractio.hateblo.jp/entry/20200123/p0
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I システム理論の普遍性と偶発性
この邦訳はほんとうに見事に読みやすいし、詳細な訳注もしばしば勉強になるが、そのなかに けっこうな割合でひどいものが含まれている。
訳注1はとりわけひどいものの例。(付番は引用者による)
… 少なくとも読者には、本書の実質的な書き出しであるこの箇所だけから、
といった問いに関して早急な判定を下してしまうことを(というよりも、本書をその種の問いを導きの糸として読み進めるという方針を採用してしまうのを)、回避せよとまでは言わないにしても、保留しておくように、勧告したい。
①は一般によく話題になってきた論点、②は佐藤俊樹による批判、そして③はおそらく(曲解にもとづいたうえで)酒井小宮論文を指している。
そもそもこの訳注は本文に対応していない。本文で述べられているのは、
- 〈システム〉という語のポピュラーな使い方の一つは、概念模型・理論模型を指示する ものだが、
この本ではそうしたやり方はせず、現実の存在者を指示するために使う
というほどのことである。すなわち、
- 語「システム」で理論模型を指す場合、「システムは現実に存在するものではない」という語り方をすることになる。(語「戦車のプラスチック模型」が戦車を指示するのではないのと同様に。)
- 語「システム」で現実の存在者を指す場合には、──もしこの概念が適用できる存在者が実際に存在するなら──「システムは存在する」という語り方になる。
ということ。つまりこれはまずは差し当たり、言葉の使い方の話をしており、また本書のように〈システム〉という語を後者の路線で使う場合にも、実際に「システムは存在する」と言えるかどうかを決めるのは、現に世界がどうなっているかの方である。
ところが、訳注の(省略した)部分で述べられているのは、たかだか「科学的言明も現実の要素の一つである」といったことであり、これは①②③のどれに対しても何の反論にもなっていない。いったいどうしてこんな注を付けたのか理解に苦しむところ。
- 1)語〈システム〉の概念内容が特定されていて、かつ、
- 2)その内容を持つ概念で指示できる対象を特定・指示できること
なのであって、そちらの方は──ごく常識的な考え方にすぎないのだから──「理論的」な検討を必要とするようなことではないのである。
またもしも、「そこに或るシステムが在る」という主張を (2)の確認作業を経由せずに述べたなら──つまり、経験的な資料に基づいた対象特定の作業をせずに述べてしまったら──、それは「システムの存在を不当に前提している」と批判されて当然である(そして実際ルーマンは、それに相当することを非常に頻繁にやっているのだから、少なくとも その意味で この批判は正しい)。
・・・みたいな文句は、生前には本人に面と向かって直接言ってきたのだが、20年にわたる付き合いの中で 訳者の こうしたスタイルが変わることはまったくなかった。そしていまや本人がいないので、こういうことはブログにでも書くしかなくなってしまった。どちらの点でも残念である。
あと「ある概念Xを(理論模型ではなく)現実に存在する対象を指示するのに使う」という語用の方針を〈実在論〉と呼ぶのもおかしなことである。そもそもそんなこと──ルーマンは実在論者か否か──は社会学者の研究実践を左右しないので、議論して価値があるような論題ではない。こういう議論をして何が嬉しいのか私には全く理解できないが、ともかくも、こうした議論をしたい人たちは是非あわせて、そうした議論が社会学の研究実践のどこにどう関わるのかも教えてほしい。