読書会の準備。
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あとがき |
ページ数の比
はじめに
- [04] 課題の提示:
「だから今、哲学者のおめでたい勝手な願望ではなく、あえて言うのだ、「哲学は誰にとっても、いつも必要なものだ」と。この入門書では、そうした誰にでも必要な哲学がどのようなものなのか説明していく。そうすることで、私たちがどのような問題を抱え、なぜ哲学が重要なのか、どうすればその問題を乗り越えられるのかということも分かるだろう。」
- [08]
「だが、一生すべての人に必要な哲学とは、どのようなものなのか。」
- [08]
[17] 本書全体の構成の提示: | ※掲げられている問いと課題に番号をつけておく: |
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自由 - 考えること
このうち、2aについては 12-16 が初出箇所だが、ここのロジックは見通し難い。これは第二章前半で詳説すると宣言されているので、そこを見ないといけないが、その前にまずは p. 12-16 について検討してみる。
「自由-考えること-哲学」の連関が提示される段落は以下の箇所[14-15]:
何事であれ、学ぶためには、「やり方」を知らなければいけない。さらに、「習うより慣れろ」と言われるように、とにかくたくさんやってみなければいけない。だが「考える」ことに関しては、いずれのチャンスも私たちには与えられていない。
学校のことを思い出してほしい。私たちが教わるのは、個々の場面で必要なルールを身につけ、その中で決められたことに適切な答えを出すことだけである。いろいろやってみるというより、決まったことを繰り返す。それは「考えること」とは違う。少なくともここで、言う「問い、考え、語り、聞く」という、対話的な意味での「考えること」ではない。
そこに自己との対話はなく、まして他者との対話など望むべくもない。ただ出された指示に従うこと、教えられたことを教えられた通りに行うことが重視される。それに習熟することで、「よく考えなさい!」と言われた時に期待されている「正解」が出せるのだ。
それはむしろ「考えること」とは反対のこと、「考えないようにすること」ですらある。「考えること」が「共に考えること」であり、「共に生きること」だとすれば、どう考えればいいかを学ばず、ただ考えないようにさせられているということは、この世で生きるうえで必要な、何かとても大切なものを犠牲にしているか、失っていることにならないだろうか。「考えること」と「自由になること」
その大切なものとは「自由」である。私たちは考えることによってはじめて自由になれる。考えることは、自分を縛りつけるさまざまな制約から自らを解き放つことである。
世の中のルール、家庭や学校、会社での人間関係、常識や慣習、自分自身の思い込み、さまざまな恐れや怒り、こだわりから、ほんの少しであっても距離をとることができる。それが私たちの生に自由の余地を与える。私たちが考えるのは、考えなければならないのは、私たちにとってもっとも大切な自由を得るためである。
考えるなんて、いつもやっている、自分はじゅうぶん自由だという人もいるだろう。牢獄につながれていても、思考だけは自由だ。そんな考え方もある。あるいは哲学好きな人であれば、人間にはそもそも自由なんてないんだ、それは幻想なんだ、という人もいるだろう。しょせん理想にすぎないという人もいるだろう。
だが、私がここで言いたいのは、そういう当たり前のことでもなければ、幻想や理想に追いやってしまえるようなものでもない。きわめて具体的で身近な問題であって、まさしくすべての人に、子どもにも人人にも、人生の最初から人生の最後まで関わることである、
私が「考えること」を通して手に入れる自由を強調するのは、現実の生活の中では、そうした自由がほとんど許容されていないからであり、しかもそれは、まさに考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中のいたるところに働いているからである。だから、自由になるためには、「考えること」としての哲学が必要なのである.
そんなことができるのかと思うかもしれない。たしかにただやみくもに考えればいいわけではない、一人だけで頑張っても、途中で力尽きるだけだろう。しかし、共に考える「対話」としての哲学には、それが可能なのである。しかもそこでは、一人で勝手に自由になるのではなく、他の人といっしょに自由になることができるのだ。
- ここで描かれている「自由」(の前提)は、
「世の中のルール、家庭や学校、会社での人間関係、常識や慣習、自分自身の思い込み、さまざまな恐れや怒り、こだわりから、ほんの少しであっても距離をとること」
- 「自由」が「考えること」と関連するのは、
「考えること」
が「考えることは、自分を縛りつけるさまざまな制約から自らを解き放つこと」
だから。
哲学 - 考えること - 他者
「哲学 - 考えること」と「考えること - 他者」の連関は [12-13]。
哲学=「考えること」の難しさ
「知識」ではない「体験」としての哲学とは、「考えること」そのものを指す。より厳密に言えば、第一章で詳しく述べるように、「問い、考え、語ること」である. そして一人で考える時、私たちは自分に問いかけては答え、それを繰り返す。つまり思考とは自分自身との「対話」なのだ。そして対話であれば、語る相手、つまり「聞く」人がいる。一人で考えている時、この聞き手は自分自身であるが、それは潜在的には他者である。
したがって「考えること」は、他の人との対話、「共に問い、考え、語り、聞くこと」であると言える。哲学とは、このようにごくありふれた、きわめて人間的な営みである。それは簡潔に「共に生きること」と言い換えてもいいだろう。互いに「問い、考え、語り、聞く」ことそのような共に考える営みとしての哲学は、人が生まれた直後から始まり、まさに人と人が共に生きていくことそのものなのである。
- 「考えること」とは、「問い - 答え ・語り- 聞くこと」である。したがってこれは「誰かとの対話」である。
相当に飛躍の多い文章であり、また、「考えること」と「哲学」が いかなる権利によって同一視されるのかは記されていない。