小関藤一郎編訳(1983)『デュルケーム宗教社会学論集』

数十年ぶり(?)。これはいい論文集。
訳者には下記単著あり:

  • スペンサーの宗教論に対する批評
  • ギュイヨー『将来の無宗教』(1887年)について
  • 個人主義と知識人
  • 宗教と自由思想
  • 宗教現象の定義
  • 宗教の未来に対する一考察:「メルキュール・ド・フランス」誌に対する回答

  • 宗教生活の起源についての講義
  • 科学と宗教
  • 宗教社会学と認識論
  • 宗教問題と人間性の二元性
    • 討論
  • 人間性の二元性とその社会的条件
  • 宗教の未来
  • 訳者解説

アンリ・セルーヤ(1956→1975/1998)『神秘主義』

『二源泉』用 https://contractio.hateblo.jp/entry/20200410/p6

神秘主義 (文庫クセジュ 252)

神秘主義 (文庫クセジュ 252)

  • 緒言
  • 第一部 基本的諸要素
    • 第一章 本質と形態
    • 第二章 恍惚感
    • 第三章 神秘な愛
    • 第四章 精神生理

お買いもの:菊地章太(2014)『エクスタシーの神学:キリスト教神秘主義の扉をひらく』

『二源泉』用。https://contractio.hateblo.jp/entry/20200410/p6

  • プロローグ──教会公認エクスタシー
  • 第一章 傷つける愛──14世紀の聖女カテリーナ
  • 第二章 燃えたつ愛──16世紀の聖女テレサ
  • 第三章 高まりゆく愛──17世紀の修道女シュザンヌ

  • 第四章 責めさいなむ愛──20世紀の患者マドレーヌ
  • エピローグ 精神医学から神学へ
  • あとがき
  • 引用文献

引用

参照文献

プロローグ──教会公認エクスタシー
第一章 傷つける愛──14世紀の聖女カテリーナ

N. J. スメルサー(1976→1996)『社会科学における比較の方法―比較文化論の基礎』

『二源泉』用。https://contractio.hateblo.jp/entry/20200410/p6

  • 第4章 デュルケムの比較社会学
    • 4-1 デュルケムの実質的な問題意識
    • 4-2 定義、記述、分類、測定
    • 4-3 デュルケム社会学における因果関係のネットワーク
      • 4-3-1 労働の分業
  • 第5章 ウェーバーの比較社会学
  • 第6章 分類、記述、測定
  • 第7章 関連、原因、説明、理論

お買いもの:チャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』

総力特集:アンリ・ベルクソンhttps://contractio.hateblo.jp/archive/2020/04/10

1999年にテイラーがギフォードレクチャーでおこなった講演に基づくもの。
論評されているジェイムズ『宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)』も、ちょうどほぼ100年前の1901-1902年に同じ枠で講じられたものだとのこと。


今日の宗教の諸相

今日の宗教の諸相

  • 第1章 ジェイムズの『宗教的経験の諸相』
  • 第2章 「二度生まれ」
  • 第3章 今日の宗教
  • 第4章 ジェイムズは正しかったのか

引用

訳者あとがき
  • 旧-デュルケーム的世界:信仰を司る制度と政治的統合の原理が一致していた世界
  • 新-デュルケーム的世界:二つが分離したあとにも、なお社会建設の原理として神の意志を代替する道徳的秩序の思想が機能していた時代
  • ポスト-デュルケーム的世界:社会の統合の原理とはまったく分離した、個人の自己表現の次元でのみ超越的なものが求められる時代
第1章 ジェイムズの『宗教的経験の諸相』
  • [03] ジェイムズの宗教観:
    • 独創的で力強い宗教的経験をもつ人々が存在する
    • その経験が何らかの制度を通じて伝えられ、他の人たちにも受け継がれる。が、彼らはそれを二番煎じのやり方で生きる
    • 伝播するにつれて根源にあった独創的な経験の力と強度は失われ、退屈な習慣だけが残る
  • [15] 17世紀後半のボシュエとフェヌロンの論争。後者にとって前者は、危険であるだけでなく冒涜的にみえる。
    • 神に向けられた純粋な愛を敢えて熱望するか
    • 神への畏れに動かされるべきか

文献

ジャン=ルイ・ヴィエイヤール=バロン(1991)『ベルクソン』


  • 序 誤解された業績
  • 第一章 時代のなかのベルクソン
  • 第二章 ベルクソン、論証の順序に従って
  • 第三章 方法とくり返される主題
  • 結語
  • 訳者あとがき
  • 参考文献

お買いもの:オーガスティン・ブラニガン(1981→1984)『科学的発見の現象学』

数十年ぶりに手にとった。これまた80年代の刊行物。

科学的発見の現象学

科学的発見の現象学

[asin:B000J764ZY]

  • 序(マイケル・マルケイ)
  • 第一章  発見問題と自然概念
    • ライヘンバッハの区別――発見と正当化
    • ライヘンバッハの区別と歴史記
      • 発見の論理と科学者の行為
    • 自然主義的アプローチと帰属主義的アプローチ
  • 第二章  発見の心理学的説明
    • ハンソンと推論の論理
      • ハンソンにおける発見と学習
    • ブラックウェルと認識論的アプローチ
      • 一般モデルと特殊事例――アド・ホックな説明
    • 科学的発見と変革についてのクーンのモデル
      • パラダイム〔範型〕と概念革命
      • 変則性か新奇性
      • 諸事例の主題的側面
    • ケストラーと創造行為――観念の双連合
  • 第三章  心理学的説明の総括的評価
      • 還元主義モデルの原理的<不十分性>
      • 心理学的モデルにおける学習と発見の混同
      • 発見にも誤りにも無差別にあてはまる心理主義モデル
      • ゲシュタルト転換――原因としての妥当性の問題
      • 事実的発見とその必要条件
      • 心理主義的説明の事後性
      • 事後的アプローチと認知心理学
      • 心理学の戦略的価値
      • 心理主義的説明の放棄
    • 批判の効用
  • 第四章  発見の社会的モデルの登場
    • 多重発見、文化と天才
      • 天才の問題――生物学か文化か
    • マートン――多重発見、天才、先取権抗争をめぐって
      • 多重事象としての発見の証拠
      • マートンの天才解釈
      • 科学における先取権抗争
    • 制度的規範か、それとも発見についての常識か
      • 発見は原理的に単独発見であること
      • 独一性かオリジナリティの規範か
      • 構成としての社会的認知および褒賞としての社会的認知
  • 第五章  有意味な行為としての発見
    • 発見の社会的基礎
    • 学習の認知的基礎
      • 科学的発見に関する常識的理解
      • 常識的理解と言語の問題
    • 発見の帰属モデルおよび発見の評価
      • <実質的可能性>としての発見、<動機づけ図式>としての発見
      • 偶然的発見
      • 発見のローカルな場面での妥当性
      • 一番乗りと先取権
    • 幾つかの問題点

  • 第六章  エンドウにあてはまる法則およびメンデルの物象化
    • メンデル復活の文脈
      • メンデルへの言及
      • 進化論における変異についての論争
      • メンデルは再発見されたのか
    • 通常科学的メンデル――彼の先行者と同時代人
      • メンデルが言及している育種家の伝統
      • 視界のなかのメンデル
      • メンデルの研究に読みとられた<可能性>
    • 結論とその意義
      • ライヘンバッハの区別と<命令的発話>
      • 多重再発見時代精神
  • 第七章  視界、再帰性そして発見のみかけの客観性
    • 発見は観点か
      • 素朴レヴェルで用いられる社会的図式としての発見
    • 行為過程としてのアメリカの発見
    • ラヴォアジェやプリーストーリーは酸素を発見したのか
    • ピルトダウン人の発見と顛末
  • 第八章  科学的発見の理論にみられる素朴レヴェルの思考
      • 科学理論および科学についての理論における素朴要素
    • 多重発見と文化的成熟――第一の理論
      • 多重発見とコミュニケーションの不首尾
      • 多重発見のリストにつきまとう曖昧さの源
    • 天才――発見の第二の理論
        • 発見と<視界の相互性>
    • ゲシュタルト変化と<想いがけなさ>の経験
  • 第九章  発見の社会学的特徴
    • <ということ>と<どのようにして>――ふたつの構成的な問い
      • 外生的および内生的説明
    • プログラム
      • 多重発見について
      • 先取権論争の潜在的機能
      • 研究報告におけるレトリックと方法
      • 研究を媒介する集団
  • 解説に代えて(村上陽一郎
  • 訳者あとがき(大谷隆昶)

引用

訳者あとがき
1-2「ライヘンバッハの区別と歴史記録」
  • ・〈発見/正当化〉を厳格に区別し、
    ・後者だけを哲学的考察の対象として取り上げ、
    ・理想化された状態を扱うことで、
    ①発見は神秘化され、②科学哲学と科学史に大きな断絶が生じた。
  • 39「本書の領分は行動科学的なところにあって哲学的なところにはない。」
  • 理想的なベキ論を語る論者と、現実はそうではないと述べる論者との間では論争は起きていない。
    正しい。
第二章「発見の心理学的説明」
  • 51 「ハンソンの分析において、発見の論理を輪郭づけ、そこに影を落としているのは学習心理学の論理である。」
第四章「発見の社会的モデルの登場」
  • 重要な指摘。「多重発見」というテーマは、フランシス・ゴルトン批判という文脈において重要だったのであり、マートンはそれを引き継いだのだと。
  • ゴルトンの批判に回った側にはレスター・ウォード、ジェームズ・ボールドウィン、C. H. クーリーなどがおり、特に、クローバー、オグバーン&トーマス、レズリー・ホワイトが重要な役割を果たした。
  • 132 テーゼ:
    ・科学者たちの実際の行動は、彼らが発見をどう理解しているかを知る手掛かりである。
    ・科学者が発見をどう理解しているかを知ることは、発見の適切な社会学的説明の前提条件である。
第五章「有意味な行為としての発見」
  • 140 1970年代後半以降のイギリスの科学社会学を「科学の科学的説明」の試みとして特徴付けているのが面白い。
    • ストロング・プログラムは、「ふつうは「間違ったもの」に対して原因を挙げることを要求されるが、「正しかった」ものに対しても同様のスタンスを取るべきだ」と述べたわけだけど、これが「反-科学的」に見えるのは、科学者たちの常識的見解に反するからだろう。
    • そしてこの、「間違ったもの」に対してのみ原因を挙げることを要求する科学者たち自身の姿勢は、「科学を歪めるもの」──科学に対する社会の影響──を調べようとする科学社会学者の姿勢と共振する。というか、まず、社会を「科学を歪めるもの」だとみなすところに、〈自然科学者における自然発生的な社会学〉が生じるわけである。
第九章「発見の社会学的特徴」
  • 9-1「〈ということ〉と〈どのようにして〉──ふたつの構成的な問い」
    これはもしや〈what / how〉ですか?
  • 328 「社会学者にとって現象としてあるのは、…、発見が科学上の出来事を同定し理解を深めるための一方法として常識的な形で用いられている、というそのことである。本書は社会の成員にとってその方法がどんなものであるかを、発見の認知を構成する〈理解可能性の基準〉という点から論じてきた。」
    ここに注が付いていてガーフィンケル&サックス(1970)が参照されている。そして注2と3と5がシクレルで4がガーフィンケル。そして6がラトゥール。
    • これに対して、ここで言われている「科学の科学的説明」の意味は次の通り(141):
      「そのプログラムは、現場の科学者たちの実際の理論や決断そして実践を、たとえそれが政治的にはどれほど出来事性を欠いていてもそれ自体として研究に値するものとして、またどれほどありきたりであってもそれ自体としても了解可能なものとして検討しようとする。科学の「認識的」要素へのこのような関心の高まりは、科学社会学が、マートンによって創始された科学者共同体の「規範論的」分析の範囲を超えて拡大していることの現れである。」
  • 141 「本書は、発見の社会的基礎を、「社会の影響」の検討を通じてではなく、現象学的アプローチによって明らかにすべきであるという立場をとる。」
  • 141 すぐ次に「現象学的」の含意を「社会的構成」でパラフレーズしている:
    「このアプローチが前提とするのは、科学研究に特有のすべての現象は社会的に構成され同定されるものであり、しかもそれは、科学外的な諸事実によって「左右される」という意味においてではなく、社会の成員によってそもそもが「科学的」として構成されるという意味においてなのだ、ということである。」
    • 続く先行研究検討パートででてくるのはロバート・マッケイとアーロン・シクレル。
    • Robert W. Mackay, 1974, “Conception of Children and Models of Socialization," in Roy Turner (ed.), Ethnomethodology

Mackay の論文が参照されているのには二つの理由があった。一つはエスノメソドロジー研究の紹介。もう一つは「学習」と「発見」の関連性。
すでに第三章「心理学的説明の総括的評価」で〈心理学的に見ている限りは 発見と学習の区別はできない〉という議論をしており、それに被せて「見るべきなのは──心理(学)的基礎ではなく──〈社会的基礎〉だ」、そして「〈社会的基礎〉とはピーター・ウィンチが議論しているアレのことだ」と歩みを進めているわけである。