google:社会学+取引費用。
うーん。キングカズがちょっと扱ってたよな、という以外はほとんど覚えておらず(勉強不足であいすみません)。
識者のご教示を乞う。
なるほど。筒井淳也さんの頁がヒットするのだった。
google:社会学+取引費用。
うーん。キングカズがちょっと扱ってたよな、という以外はほとんど覚えておらず(勉強不足であいすみません)。
識者のご教示を乞う。
google:はてな+山崎敬一。
え?
「場所は変更になる可能性が167%ぐらいある」そうですので、詳細は岸さんのブログ↓を常時激しくチェックする、という方向で:
都市下層問題研究会 特別セッション
- 日時:2004年8月3日(火)14:00-18:00
と書き写して、そういや『暴力の哲学』が積んだままになってたことを思い出すわたし♪
都市下層問題研究会 特別セッション
2004年8月3日(火)
13:00 - 17:00
大阪市立大学文化交流センター 小セミナー室
大阪市北区梅田1-2-2-600
大阪駅前第2ビル6階
Tel 06-6344-5425 / Fax 06-6344-5524
出かける前に、再度チェック!↓
どのくらい実践的かは知らん。
4・3・1 システム論の展開と社会哲学的難点:ルーマンとウォーラースティン
システム論の先駆者としてはベルタランフィーやパーソンズがいるが、それを徹底的に機能主義的な社会システム論として発展させ提示したのはルーマンであり、それを歴史社会学として発展させ提示したのはウォーラースティンである。
ルーマンの社会システム論の構図は、自己準拠性を持つシステムが、社会において自己を再生産ないし創出していくことで、相互に何ら階層性が存在しない程度にまで複雑に進化(機能分化)しつつ、社会を構成し秩序付ける、というものである。そして現代の社会理論の課題は、そうした社会の複雑性を以下に軽減するかにかかっている、というものである。
このルーマンの議論は、社会的行為をシステムの要素としてのコミュニケーションのネットワークとして機能的に把握するために、規範や倫理の問題について批判を遂行することが出来ないために現状肯定に傾きがちである。個人はシステムの中に埋没し、多様なあ文化の世界も均質化されるのである。
- http://www5.plala.or.jp/shibasakia/linkp0710.htm
なるほどなぁ。(何が。)
google:社会心理学+成員カテゴリー化装置。
やややややや。それはどうだろう??
google:カテゴリー+装置+成員|メンバーシップで探すよろし。
- 「あるカテゴリーが、それを含むカテゴリー集合collection-の-メンバー[=要素]である」こと 〔→下図の左辺〕
と、
- 「あるカテゴリーでカテゴリー化される【ひと】が、(その カテゴリー集合collection でカテゴリー化される)集団population-の-メンバー[=構成員]である」こと 〔→下図の右辺〕
について見てみないといけないでしょう。
(情報提供thanxto:井出さん)
社会科学基礎論研究会:シンポジウム「現代社会の鏡としての〈宗教〉」
- 本年度第2回研究会を下記のように開催します。
〈宗教〉の再定義の問題やそれに伴う(宗教)社会学の方法論的議論を通じて、現代社会を分析することを目的としたシンポジウムです。宗教という観点から見る現代社会論として、宗教論と現代社会論を架橋する試みにしたいと思います。
みなさまのご参加をお待ちしております。記 テーマ:現代社会の鏡としての〈宗教〉
- 参加費:500円 学生300円
- ★下記の研究会HPに、シンポジウム1週間前を目処に報告概要を掲載する予定です。ぜひご覧ください。
- ★当日は、研究会機関誌『年報 社会科学基礎論研究』(ハーベスト社)最新号(第3号:特集 〈危機の時代〉の行為論)をはじめ、登壇者や研究会会員の著作、シンポジウムに関連する書籍、12月開催の第3回研究会の書評対象本である佐藤嘉一著『物語のなかの社会とアイデンティティ』(晃洋書房)の頒布を予定しています。
- ★研究会終了後、懇親会を行ないます。ぜひ、ご予定にお含めください。
hidexさんの問題関心とは離れた方向へ(?) だらだらと話を流して逝ってみるわけですが。
初めて見るようなテーブルを見たときでも、われわれは「あ、テーブルだ」とわかるわけでして。でーこれはGHミードいうところの「呼応answering」(=腰掛に腰掛けるという行為傾向の凝固物が腰掛*4)みたいなもので、ルーマンの「レレヴァンス」はそこまで射程に入れているだろうと。EMのMCDは装置内でのレリヴァンスなわけですよね。そりゃだめだろうと。
手広く「射程に入れてい」れば偉いのか? (それなら「大先生系」の人が一番えらい、ということになりそうな気が。)
「手続き」概念自体が超越的カテゴリーであって、つまり「ほら、わたしはこうやって手続きを示していますよ」と言ったからといって「手続き」を示したことにはならず、「じゃあ、あんたがほんとうに『手続き』を示しているということを証明して見せろよ」ということになってしまい、以後無限後退ですわな。
[略]
システム・リファレンスについて。
mlsのMLで繰り返し述べたように、システムをリファーするのはコミュニケーション(ないしオペレーション)であって、観察者ではなく、つまりコミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されているというべきなのであり、「そのコミュニケーションはいかにしてシステムをリファーしたのか」を記述することは、「システムリファレンスを示す」という課題にとっては冗長である??オーダーが1水準違う??はずです。「別の課題」にとっては良いことかもしれませんが(この「別の課題」に取り組んでいるのがEMなのだろう、という予感はしているのですが、それをしてなんになるんだ、という問いにはまだ答えられないので、EM厨としてお勉強中、というわけです)。
仮に──56億7000万歩ほど譲って──、こうした↑議論によってサックスのやったことの意義がひっくり返った、としてみましょうか。
【SR】:システムリファレンスを示せ!
という命令(=看板=格律=自己制約)を掲げているわけでした。
さてここで、あり得る議論は、二つ。
(1) 仮にもしも、hidexさんの謂うとおり、
【H】:コミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されている
と考えるとするならば──正直、私はこの命題の意味をちゃんと汲み取れている自信がありませんが──、そのときには、
ということになるはずではないですか。
(2) 他方もしも──【H】は間違っているのだが、しかしやはり──、【SR】は、
【EM】:レリヴァンスを示せ!
という指令=自己制約とは異なるのだ、という主張をする場合、当然、
【Q】:そもそも【SR】とはいったいどういうことだ?
という問いは、手付かずのまま「単に残っている」だけなわけです。
で。
(1)は「あからさまにまずい」と思います。
【追記】20040706 09:54
hidex7777さん曰く
いや、社会心理で飛んできたのなら導くべきはこちら↓
- 皆川満寿美「相互行為と性現象──エスノメソドロジーからのアプローチ」『相互行為の社会心理学』(北樹出版)
論文の中味はぜんぜん「社会心理学」じゃないですがw。
さらに曰く:
いや、ぼくが「比較」しようとしているのは、<EMいうところの「カテゴリー」>と<ルーマンいうところの「意味形象」Sinngebilde>です。EMでは《メンバーシップ・カテゴリー化・装置》という概念を使いますが、どうもmembershipという言葉はヒトに対して使用するものらしく、それよりはルーマンの:
あらゆる種類の社会的アイデンティティとシステムは、人格を含めて、社会的コミュニケーション過程でのみ、つまり所与のコミュニケーション可能性とりわけ言語的および非言語的シンボルという尺度に従ってのみ、構成されうる。
……意味形象が増殖しうるのは次のような場合、
すなわちコミュニケーションがますます一般的でそれゆえ特定化可能な(そのレレヴァンスにおいて限定されている)観点へと志向せしめられているような場合、
言語とそれの補足的制度とがこれらの観点へと向けて調整されているような場合、
そして大抵の状況に対して適合性をもつ組み合わせ*2の適切な選択が保障されているような場合である。(154頁)という議論にのっかったほうが、ヨリひろい意味での「カテゴリー化」を扱えるのではないかと思ったわけです。
アドホックな議論の拡張ありがとう。*しかし
システム・リファレンスについて。
mlsのMLで繰り返し述べたように、システムをリファーするのはコミュニケーション(ないしオペレーション)であって、観察者ではなく、つまりコミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されているというべきなのであり、「そのコミュニケーションはいかにしてシステムをリファーしたのか」を記述することは、「システムリファレンスを示す」という課題にとっては冗長である──オーダーが1水準違う──はずです。
■コミュニケーションが連鎖した時点ですでにシステムリファレンスは示されている
とhidexさんが述べるとき、そこで
示されている、と考えているのでしょうか。言い換えると、そこでいう「システムリファレンス」は、
なのでしょうか。
「手続き」概念自体が超越的カテゴリーであって、つまり「ほら、わたしはこうやって手続きを示していますよ」と言ったからといって「手続き」を示したことにはならず、「じゃあ、あんたがほんとうに『手続き』を示しているということを証明して見せろよ」ということになってしまい、以後無限後退ですわな。
「サックスの書いていることを読めば、大抵のヒトであれば理解できるし納得するはずだ」といってみても、それはたかだか統計学的規範にすぎない。「納得いかなきゃあんたヒトじゃねえ」で終わらせようという魂胆なのでしょう*5。
- *5:ぼくはヒトである必要性も必然性も感じていないしそもそもヒトになりたくないし。
(´,_ゝ`)
hidexさん曰く:
ちなみに一文目の「24段落目はカテゴリー化装置だ!」というのは、その段落が「カテゴリー化装置としての機能を果たしている」という意味ではないです(そんなことまで敷衍しなきゃならないのか。非常に疲弊させられる)。
そりゃそうだよ。だって他人だしw。
当然ながらその段落でしている議論はEMでいうところのMCDの議論に似ている、ということでもないです。たんに社会的に-言語的に-シンボリックにカテゴリー(みたいなもの)が発生する/可能になる条件を述べている段落だ、という意味です。
残念ながら、こっちは↑何いってんのかわかんなかった。です。
「メンバーシップ」がヒトのことを指すのだとしたら、ぜんぜん自明じゃないと思います。椅子や便器のほうがも社会的だと思う。
ぼくはおしっこするけれど、ヒトじゃなくてもおしっこするでしょ。しかしおしっこするという単位性は便器への行為傾向性との関連で定まりかけるようなものなので、行為の単位性と、皿やテーブルや便器は同時に射程に入れなければ、カテゴリーという社会的/実在的/超越的なものについてなにも語ったことにならないと思う。
なにがいいたいかというと便器もヒトも等価に社会的だということ。です。
「【ひと】──に適用されるカテゴリー──が社会的なのは自明じゃない」という主張を前提にすれば、
という主張は成り立たない。なるほどおっしゃるとおり(かもしれません)。
それはいいとして。
でも問題は、
【P1】椅子や便器
のほうがも社会的だ
とか
【P2】便器もヒトも等価に社会的だ
とかといった主張を、どうやって示すのか、なんですよ。その点は、話をどこに振っても変わらないと思うんだがどうか。
ていうか、椅子や便器について、その「社会性」がうまく示せれば、そりゃあ
になると思いますが?
他方、MCDで謂う「メンバー」は、〔略〕
それはわかる。わからないのはそいつでなにを議論しようとしているのかということ
「レリヴァンス」の問題*でしょう。
さらにちなみに、社会学研究互助会でこの話題が(何度も)でた時(のうちの一つ)に参照されていたのはこれだけど:
あそこではさらにもう1ステップ複雑な話──シェグロフ(1987, 1991)**の課すふたつの制約を、西阪論文[→改変のうえ(?)上記著作所収]がどうクリアしたか、という話──をしていたよ(皆さんが)。こっちの話題は、正直なところいまだにちゃんとフォローできた気がしてません(ので、まだたまに過去ログ読みかえしたりしてる私♪)。
** 確か、どっちかの論文を、会話分析読書会で読んだので、その話になったんだと思う。1987は「ミクロ-マクロ」だから、これ↓だな: