おらしょ

生月壱部 かくれキリシタンのゴショウ(おらしょ)

生月壱部 かくれキリシタンのゴショウ(おらしょ)

長崎・生月島のオラショ

長崎・生月島のオラショ

(20041211-12) EMCA[エスノメソドロジー・会話分析]研究会大会

いろいろ情報微修正がでております。

が、要旨は「泊まりが必要なひとははやいとこ一万振り込んで=申し込んでくれ」。


最新の情報は emca-ml にて:

山崎敬一「サックスの社会科学へのハイブリッドな関心」

どなたかコ■ーしておくれなさい。

(20041127) 「病いの語り」講演会

「病いの語り」 講演会
  • 日 時:  11月27日(土) 13:00〜15:30
  • 場 所:  京都大学 医学部 芝蘭会館別館(国際交流会館)研修室2
    ( 〒606-8302 京都市左京区吉田牛の宮11-1 電話 075-771-0958. 京大正門前下車徒歩数分)
    http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/japanese/event/shiranhall.html
  • 企画者: やまだようこ・桑原知子 (京都大学大学院教育学研究科)
  • 主 催: 21COE京都大学心理学連合
  • 共 催: 科研費プロジェクト「語りをとらえる質的心理学の研究法と教育法」  日本質的心理学会研究交流委員会
  • 問い合わせ: develop[at]www.educ.kyoto-u.ac.jp
    • (どなたでも御参加いただけます。直接会場にお越しください。無料です。先着順で定員は約100人、開場は12時20分です。)
  • 講演者: 江口重幸先生(東京武蔵野病院・精神科医
  • 演 題: 「病いの経験を聴く:臨床民族誌の視点から」
  • 講演概要:
    • 「病いの経験を語り,それを聴き取るという行為のうちに含まれる多様な意味や可能性を,具体的な事例をとおして検討したい。それには医療人類学や文化精神医学から取り入れられた,「病いは物語である」という視点や精神医学への文化批評という視点が含まれる。それら民族誌的視点が日常臨床においても重要な役割を果たす点を論じたい。」

はてな社会学本復刊クラブ(嘘

■「社会学と人類学 全2巻」(マルセル・モース)
【投票情報】(現在21票 復刊交渉開始まであと79票)
昨日3票の投票がありました。

はやくも はてな内人的資源が枯渇したようです(が引き続きよろしくおねがいします)。

『経営行動』もよろしく
http://www.fukkan.com/list/comment.php3?no=2367(2000/11/26〜:26票)

はてな社会学本復刊クラブ(嘘

はてな社会学本復刊クラブ(嘘」の組織票投票先候補としては、ほかにこんなものがあるようです。

カードボックス(ネタ)再(・e・)ホウ

575 :名無しさん@社会人 :04/10/17 23:35:20
カードボックスが勝手にアイデアを生み出してくれる・・・
そんなことが本当に実現したらいいなあ・・・

このアプリ使え。

つーか、秘書が要るっつってんじゃねーか。この のびた野郎が。

お客さま

なぜこちらからたくさんのお客様がいらっしゃるのでしょうか*。

  • http://masturber-gay-transex.moldovaconsulting.com/

* リファラに設定してるから? あるいはIEのバグ♪


google:個人と教育
意味わかんね。


google:ヨングミラ
(・∀・)テッチータァー!*1

*1:鳴金一下大吹打

(・∀・) ダチコウツク!

参照していただいたので*1、あわててリンクとかを張り替えてみるテスト*2

*1:http://d.hatena.ne.jp/jouno/20041018#1098030381

*2:今はなき「掲示板」にリンクしてた

涜書:『ミシェル・フーコー思考集成』(3)

  • 58「「エスプリ」誌 質問への回答」(1968)
  • 59「科学の考古学について:<認識論サークル>への回答」(1968)
  • 66「ミシェル・フーコー、近著を語る」(1969)



再訪。(何度目なのかは もうわからないw。)


59の論考がなぜわけわからんのか、もいちど読んだらその理由が(やっと)わかった。
フーコーはここで、冒頭で自分がたてた問いに 答えていない。 なので、読者は、書いていないその答えを探して途方に暮れる事になる──、という事情なのだった┐(´ー`)┌


確認。

私は、いわゆる歴史家の人々が連続性を抽出している一方で、思想史家の人々は不連続性を明るみに出しているという、こうしたパラドクスから出発しました。これら二つの方向はしかし、歴史一般についての同一の方法的再考によってもたらされた、シンメトリカルで逆向きの二つの効果であると私は考えます。[66: p.199]

知りたいのは、

  • 歴史家[=アナール]の人々が連続性を抽出している一方で、
  • 思想史家[=エピステモロジスト]の人々は不連続性を明るみに出している

という、こうした

    • (双方を尊重しようとすると)パラドクス(に陥る事になるようにみえる事態)

が、しかし

    • 同一の方法的再考によってもたらされた(‥)効果である[=パラドクスではない]

といえるのだとしたら、それは どういう仕方で なのか、である。

これは が ではなくフーコーたてた問いであることよ。


ここから出発してパラドクスを脱する方向は、論理的にはあれこれ考えられる。が、59の論考においては、フーコーは 、「非連続性」のほうを擁護し
たうえで、「言説の分析」を「非連続性」にもとづいてどのように打ち立てるか を論じ
ているのだから、それを前提とした方向は一つしか無い。つまり、

    • アナール派の描く連続性(=長期持続)は、
      歴史主義的形而上学の謂う「連続性」とは異なるものである

という主張*をするしかない。

* そして確かに(もしもこのように主張されるなら)それはもっともなものに聴こえる。


ところが、(期待される)その主張のかわりに彼が述べるのは、次の主張なのだった。

歴史的研究のある種の領域[〜エピステモロジー]は連続性から非連続性へと向かい、他の諸領域[〜アナール]──ほんらい歴史学そのものというべきもの──は雑多な非連続性の蝟集状態から、中断されることのない諸々の大きな統一的単位の研究へと向かったのだ、などと想像してはならないのである。じっさいは、非連続性の概念自体が在り方を変えたのである。 [5903]

「非連続性の概念自体が在り方を変えた」???──よろしい。
では、そうだとしたら、件の「パラドクス」は、どう考えられる事になるのか?

どのような意味でパラドクスではない──どころか、「歴史一般についての同一の方法的再考によってもたらされた、シンメトリカルで逆向きの二つの効果である」──のか??? 
そしてまた、「長期持続」概念は、「非連続性」という操作的概念と どのような関係を取り結ぶ事になるのか?????
残念ながら(しかし当然ながら)、これ↑について(も)、彼はまるで論じていない。
それどころか、「長期持続」に関連する術語・表現*は、冒頭に出て来たあと、もはや一度も登場しない(それでは、そもそも「脱パラドクス化」などされようがないw)。
* フーコー自身が使っているのは、たとえば「長い時代区分」「沈殿層」「物質文明」などの言葉。すべて [5901] にしか登場しない。


結局?
──とりあえず59(および66)に限って謂えば、“エピステモロジーは非連続性へと向かい、アナールは連続性「へと向かったのだ、などと想像してはならない」” などと なぜいえるのか、ということについて、フーコーはまるで語っていない、ということ。
ワケワカラン┐(´ー`)┌

歴史学・歴史主義・知の考古学

「長い歴史」と「短い歴史」についてコメント欄にてご教示をいただきました。ありがとうございます。

# H 『宣伝のようではしたないものの、大掃除よりは楽だと思うので貼っておきます。http://www.thought.ne.jp/html/text/medio/medio223.htmの頁内で、”p.14”を検索してもらうと、序文の該当部分のレジュメがあります。ここでフーコーがいっている、分配、分割、レベル分け、セリー化のもととなるのが、書かれた歴史ではなくて、可能態としてのディスクールの総体である「アーカイヴ」、分配……セリー化などの「法則・秩序」を定めるのが、『知の考古学』の企図。(長い・切断双方の)歴史家は対象を「分析・記述」するわけですが、アルケオローグは一定の秩序に従ったディスクールの体系を「標定・記述」するといったところでしょうか……。』

宣伝上等。(はしたなくなんかありませーん。いつもココロに営業を♪)


 原さん──カミングアウト(?)されたので、以下名前で呼びかけますが──に書いていただいた事は、私のいまいる地点からはすでに・かなり-遠く離れた/先に進んだ、『考古学』の主題の内部にたちいった話になると思います。が、残念ながら私は(すでにすっかりその内容はわすれていますし、したがって)まさにこれからそこに踏み込もうととし(ようかどうしようか迷っ)ているところなので、うまく対応ができません。たとえば上で、

  • 歴史家は対象を「分析・記述」する/アルケオローグは[‥]ディスクールの体系を「標定・記述」する

と書いてくださった対比や、上記URLでの、

両者で決定的に違うのは、

  • フーコーにとっての出来事はディスクールの次元(‥)で考えられるのにたいして、
  • ドゥブレはメッセージがテクストを突き抜けて革命や騒擾、制度的転覆のような社会事象となることを出来事と呼ぶ。[→

といった仕方での対比は、

「割り付け」をしたとき以来、こちらも久々に通読しましたが(^_^)
──たとえば、それがどのくらい・どのような意味で「決定的に違う」のか──よくわかりませんでした。


 私が目下のところ気にしているのは、こうした↑議論以前の、もっとささやかな事柄──フーコーはアナールに対してどのような線を引いたのか──であり、そして、とりあえず──これまでの手短な検討の限りで──わかったのは、

  • 私の問いに直接に関わる事柄をフーコー自身が「パラドクス」という言葉で定式化しており、しかも、
  • そう定式化しているにもかかわらず、どうやら彼は、それにちゃんと取り組んでいないようだ

というところまで、です。


‥‥という前提のうえで。
 原さんの「メディオロジー入門」を読んで素朴に気になったこと──のうち目下の論点に関わること──を書いてみると。


 原さんのこの論考では、2.42.5で、「長い歴史」と「短い歴史」が対比されており、そうであるからこそ──いま私が読んでいる「長い歴史」と「短い歴史」の双方について言及しているフーコーのテクストの読解に──参考になるだろう、ということで、参照を促されたのだろうと思います。が。
 この論考で参照されている「長い歴史」は、マクルーハン〜ドゥブレやルロワ=グーランなどのそれのようです。まずここで、「それら」と、アナールが語るような長期持続(という意味での「長い歴史」)とは、どんな意味で同じだといえるのか、という素朴な疑問がわきます。

そしてそれ以前に──原さんの論考の内部でも、同じ問いを問う事ができるわけですが──「メディア技術によって規定される長い歴史」と「人類史的なタイムスパン(という意味で長い歴史)」とが、どんな意味で「同じ」なのか、という疑問もわきます。


 そして、それら──「技術論的」であろうが「人類史的」であろうが「長期持続」であろうが──すべてに(にまつわる議論に)ついて思うのは、‥‥「長い歴史」を扱う事に、「(理論的)根拠」がいるのかどうか。そもそも それがよくわからない‥‥、ということです。


 たとえば──本がどこにあるのかわからないので記憶だけにもとづいて書けば──、ブローデル『物質文明』であつかったのは15世紀から18世紀だったとおもいますが、そこを扱う事にしたのは、その期間が「生物学的なアンシャンレジーム」(とブローデルが呼んだもの)の内にあったから、だった(と記憶します)。 これはなんら「理論的」な根拠ではない。そしてそれはそれで、特に「理論的に問題となる」ようなことではないはずです。
 同様に──フーコーの言葉を引くと──「経済成長のモデルだとか、交換の流れや発展の利潤や人口衰退の定量分析だとか、気候の変動の研究だとかといった、一部は自分たちが拵え上げ、他の部分は受け継いだ諸道具」[590101:IIIp.101]を用いる事によって描けるようになった「長期の持続」がそのように描けるのは、まさにそのような諸道具によってのことである、とかいう話であるのならば、ここにはいわゆる「理論的」(だとか「方法論的」とか)と呼ぶべきような問題は、やはり、特になにもないわけです。
読者はただ楽しくそれを読んでいればよろしい。
ちなみに、私はここで、「長期スパンで歴史を扱う事にそもそも根拠など必要ない」という積極的な主張をしているわけではありません。念のため。
 それが──特に「長期持続」について──、ここ[=『思考集成III』や『考古学』]で「理論的・方法論的」な「問題」になっているのは、ほかならぬフーコーが、それを「パラドクス」という形で定式化しているから、
さらに「長期持続」を「非連続性=切断」によって規定しうる、というスタンスをとっているから
でしょう*。
そのような定式化や規定(の試み)が おかしな事である、といっているわけではありません。念のため。
ただ単に、「理論的に問いをたてたなら、それは理論的に解かれねばならないだろう」と思うだけです。(そしてまた、「にもかかわらずフーコーはどうしてそうしないのか」と訝しんでいるだけです。)
* さらにたとえば。パラドクスを解消するやり方には、「双方を尊重する」のをやめ(て、どちらか片方だけを尊重す)る、というやり方だってありえます。つまり──たとえば──「俺は【切断】だけで逝く。【長期持続】なんて相手にしない」とさえいえば、とたんに「パラドクス」は消えてなくなります。しかしフーコーは、そうした路線はとっていないようです(少なくともスローガン的には)。
「表面的に」テクストを追う限りでは、「スローガンはともかく、そういう↑ことを言って=やってしまってることになるんじゃないの?」という疑問が湧きかねないところがまた困ったところですが....



 それはそれとして、もう一点気になる──やはり素朴に気になる──ことがあります。フーコーもそうですが、原さんも、「いわゆる歴史学」にあまり頓着していないようにみえる点です。
 フーコーのテクストを読んでいると、いわゆる「実証史学」など存在しない──そして歴史学はすべてアナール派に占拠されてしまった──かのような気になってきますが、そんなことはもちろんないわけです。なので、私としては、「長期持続/認識論的切断」も気になりますが、それ以前に、「アナールと(ふつうの)歴史学の違い」も気になるわけです。

先日知人と話していた時には、笑い話として、「ふつうの歴史学」は、ごくごく短いスパンで研究をする(たとえば、フランス革命の周辺5年間、とか)ので、そこが世紀をまたがって研究するアナールとの違いだ、とかいう話になりましたが。
これはもちろんトートロジー
さらに、フーコーの──少なくとも私がいま読んでいる──テクストでは、(いわゆる)実証史学と歴史主義的形而上学の区別も(しばしば)曖昧です。
この点も、読んでいてあたまを抱えたくなるところです。というか、「ふつうの歴史学者」は怒っても おかしかないですわな.....。


そんなわけで、

  • 歴史家は対象を「分析・記述」する/アルケオローグは[‥]ディスクールの体系を「標定・記述」する

といった対比だと、

    • 「アナール/エピステモロジー」-と-「ふつうの歴史学」との違い

や、

などを気にしている私の関心には、ざんねんながら擦らない、ということになってしまうわけなのでした。






てことでとりあえず。
フーコーは、

についても、

  • 「長期持続」-と-「連続性」との違い

についても──とりあえずいま読んでいるテクストでは──語ってくれていないようなので、諦めて、先に(というか別の論点に)目を移す事にしたいと思います。


さしあたりのお返事はこんなところで。