- アーティスト: 土肥栄,磯元義明,大石義孝
- 出版社/メーカー: フォンテック
- 発売日: 2001/01/21
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- アーティスト: 宗教音楽
- 出版社/メーカー: キングレコード
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いろいろ情報微修正がでております。
どなたかコ■ーしておくれなさい。
ずーぷす使ってます。
「病いの語り」 講演会
- 日 時: 11月27日(土) 13:00〜15:30
- 場 所: 京都大学 医学部 芝蘭会館別館(国際交流会館)研修室2
( 〒606-8302 京都市左京区吉田牛の宮11-1 電話 075-771-0958. 京大正門前下車徒歩数分)
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/japanese/event/shiranhall.html- 企画者: やまだようこ・桑原知子 (京都大学大学院教育学研究科)
- 主 催: 21COE京都大学心理学連合
- 共 催: 科研費プロジェクト「語りをとらえる質的心理学の研究法と教育法」 日本質的心理学会研究交流委員会
- 問い合わせ: develop[at]www.educ.kyoto-u.ac.jp
- (どなたでも御参加いただけます。直接会場にお越しください。無料です。先着順で定員は約100人、開場は12時20分です。)
- 講演者: 江口重幸先生(東京武蔵野病院・精神科医)
- 演 題: 「病いの経験を聴く:臨床民族誌の視点から」
- 講演概要:
- 「病いの経験を語り,それを聴き取るという行為のうちに含まれる多様な意味や可能性を,具体的な事例をとおして検討したい。それには医療人類学や文化精神医学から取り入れられた,「病いは物語である」という視点や精神医学への文化批評という視点が含まれる。それら民族誌的視点が日常臨床においても重要な役割を果たす点を論じたい。」
■「社会学と人類学 全2巻」(マルセル・モース)
【投票情報】(現在21票 復刊交渉開始まであと79票)
昨日3票の投票がありました。
はやくも はてな内人的資源が枯渇したようです(が引き続きよろしくおねがいします)。
「はてな社会学本復刊クラブ(嘘」の組織票投票先候補としては、ほかにこんなものがあるようです。
575 :名無しさん@社会人 :04/10/17 23:35:20
カードボックスが勝手にアイデアを生み出してくれる・・・
そんなことが本当に実現したらいいなあ・・・
このアプリ使え。
つーか、秘書が要るっつってんじゃねーか。この のびた野郎が。
なぜこちらからたくさんのお客様がいらっしゃるのでしょうか*。
google:個人と教育。
意味わかんね。
google:ヨングミラ。
(・∀・)テッチータァー!*1
*1:鳴金一下大吹打
再訪。(何度目なのかは もうわからないw。)
59の論考がなぜわけわからんのか、もいちど読んだらその理由が(やっと)わかった。
フーコーはここで、冒頭で自分がたてた問いに 答えていない。 なので、読者は、書いていないその答えを探して途方に暮れる事になる──、という事情なのだった┐(´ー`)┌
確認。
私は、いわゆる歴史家の人々が連続性を抽出している一方で、思想史家の人々は不連続性を明るみに出しているという、こうしたパラドクスから出発しました。これら二つの方向はしかし、歴史一般についての同一の方法的再考によってもたらされた、シンメトリカルで逆向きの二つの効果であると私は考えます。[66: p.199]
知りたいのは、
という、こうした
が、しかし
といえるのだとしたら、それは どういう仕方で なのか、である。
という主張*をするしかない。
歴史的研究のある種の領域[〜エピステモロジー]は連続性から非連続性へと向かい、他の諸領域[〜アナール]──ほんらい歴史学そのものというべきもの──は雑多な非連続性の蝟集状態から、中断されることのない諸々の大きな統一的単位の研究へと向かったのだ、などと想像してはならないのである。じっさいは、非連続性の概念自体が在り方を変えたのである。 [5903]
「非連続性の概念自体が在り方を変えた」???──よろしい。
では、そうだとしたら、件の「パラドクス」は、どう考えられる事になるのか?
「長い歴史」と「短い歴史」についてコメント欄にてご教示をいただきました。ありがとうございます。
# H 『宣伝のようではしたないものの、大掃除よりは楽だと思うので貼っておきます。http://www.thought.ne.jp/html/text/medio/medio223.htmの頁内で、”p.14”を検索してもらうと、序文の該当部分のレジュメがあります。ここでフーコーがいっている、分配、分割、レベル分け、セリー化のもととなるのが、書かれた歴史ではなくて、可能態としてのディスクールの総体である「アーカイヴ」、分配……セリー化などの「法則・秩序」を定めるのが、『知の考古学』の企図。(長い・切断双方の)歴史家は対象を「分析・記述」するわけですが、アルケオローグは一定の秩序に従ったディスクールの体系を「標定・記述」するといったところでしょうか……。』
と書いてくださった対比や、上記URLでの、
両者で決定的に違うのは、
といった仕方での対比は、
というところまで、です。
‥‥という前提のうえで。
原さんの「メディオロジー入門」を読んで素朴に気になったこと──のうち目下の論点に関わること──を書いてみると。
原さんのこの論考では、2.4と2.5で、「長い歴史」と「短い歴史」が対比されており、そうであるからこそ──いま私が読んでいる「長い歴史」と「短い歴史」の双方について言及しているフーコーのテクストの読解に──参考になるだろう、ということで、参照を促されたのだろうと思います。が。
この論考で参照されている「長い歴史」は、マクルーハン〜ドゥブレやルロワ=グーランなどのそれのようです。まずここで、「それら」と、アナールが語るような長期持続(という意味での「長い歴史」)とは、どんな意味で同じだといえるのか、という素朴な疑問がわきます。
それはそれとして、もう一点気になる──やはり素朴に気になる──ことがあります。フーコーもそうですが、原さんも、「いわゆる歴史学」にあまり頓着していないようにみえる点です。
フーコーのテクストを読んでいると、いわゆる「実証史学」など存在しない──そして歴史学はすべてアナール派に占拠されてしまった──かのような気になってきますが、そんなことはもちろんないわけです。なので、私としては、「長期持続/認識論的切断」も気になりますが、それ以前に、「アナールと(ふつうの)歴史学の違い」も気になるわけです。
といった対比だと、
や、
などを気にしている私の関心には、ざんねんながら擦らない、ということになってしまうわけなのでした。
についても、
についても──とりあえずいま読んでいるテクストでは──語ってくれていないようなので、諦めて、先に(というか別の論点に)目を移す事にしたいと思います。
さしあたりのお返事はこんなところで。