4章8節

コミュニケーションは見ることができない。

こうしたコミュニケーションについての分析*のもっとも重要な帰結によると、コミュニケーションは、直接には観察されえないのであり、コミュニケーションは推定されることによってしか接近されえない53

53 この点にもまた、社会学者がコミュニケーション概念よりも行為概念から出発するのを好む理由が存していると見てよい。Warriner a.a.O. S106 をみよ。「コミュニケーション理論にみられる根本的な問題は、社会科学者が、直接に観察できないものを取り上げたがらないことに存している。」

したがって、

  • コミュニケーション・システムが観察されうるためには、あるいは
  • コミュニケーション・システムそれ自体が観察しうるためには**、

コミュニケーションシステムは、行為システムとして明確に標識されなければならない。コミュニケーションシステムが同時にすすめている自己点検──それについては先→2節(10)に述べたのだが──が その機能を果たしうるのも、
p.259

* 「象徴的相互作用論の」ということ???
** なんと。「観察不能性」テーゼは、一次の観察にも二次の観察にもあてはまる、ということなのだった!

基底的自己言及においても、いつもつねに 帰属過程をとおした行為への縮減(という自己観察)が生じている(?)

 情報と伝達の区別に応じて、行為は二つの異なるコンテキストで、すなわち、

  • 一つには、情報として──ないしコミュニケーションの主題として──、
  • また一つには、伝達行為として、

社会システム──つまりコミュニケーション──にとって重要な構成因となる。[‥]

 したがって、社会システムは、コミュニケーションという基礎なる出来事に基づいて、またコミュニケーションのオペレーションを進める行為と関係づけられることをとおして、行為システムとして構成されることになる。[‥]

 それぞれの行為は、帰属の過程Zurechnungsprozesse をとおして構成される。行為が成立するのは、なんらかの根拠からか、なんらかのコンテキストにおいて、なんらかのゼマンティク(「意図」「動機」「利害関心55」)によって、選択がシステムに帰属されることによってなのである。この行為概念は、心理的なものを顧慮しないがゆえに、行為についての十分な因果的説明をおこないえないことは明白である56。本書で選ばれた行為概念において肝要なのは、選択が、システムの環境ではなく、システムに関係づけられること、ならびにこのことに基づいて、次のコミュニケーションの受けて、次の行為の接続点が、そのための根拠として何が訳にたとうとも、定められているということである。

[p.260-1]