4章第6節

p.243

 なによりもまず興味深いのは、コミュニケーションがそれぞれ単一のユニットeinzelne Einheitとして

たとえば警告の呼び声として、救いを求める声として、ただちにかなえられうる願い事として、挨拶として、ドアの前でどちらがまず通り抜けるかの問題の合意として、映画館の入場券の購入として

現われることは まれにしか起こらない、ということである。この種の単一なコミュニケーションは、しばしば言葉を用いずに、あるいはほとんど言葉を使用せずに可能なのだが、どのばあいでもコンテキストに強く結びついている。

過程的自己準拠=再帰的コミュニケーションの、過程形成による分化

コミュニケーションという事象がより強力に分出するためには、かなりの数のコミュニケーション ユニットが一つの過程──先に述べたとおり、多数の選択的出来事の、交互的な条件づけをとおしての時間的な結合と解される過程──に結びつくことが必要になる。このような分出を成し遂げるためには、新たな種類の自己準拠[=過程的自己準拠]を手に入れることになるコミュニケーションの処理過程が必要である。そうしたコミュニケーション過程は、その過程においてその過程それ自体に反応できる。

たとえば、コミュニケーション過程では、必要とあらば、すでに話されたことを再び繰り返したり、補ったり、修正することが可能である。またこの過程では、あることを提言したり、それに反論したりすることが許容されている。

さらにこうした過程は、その過程それ自体がコミュニケーション過程として取り扱われることにより、再帰的になることができる。こうした過程が分出して、そのおかれたコンテキストから相対的に独立することは、その過程内部の整序された非任意性を明らかにその前提としている。というのも、コミュニケーション過程は、そうしたばあいにのみ、状況のいかんによって理解されたりされなかったりする事態を脱して、それ自体の力能で、理解しうるコミュニケーションが可能とされるからである。しかしながら、そもそもコミュニケーションはいかにしてそうした過程になりうるのだろうか。

 

ここからが本節の主題:
再帰的コミュニケーション=過程形成の可能性条件:〈テーマ/貢献〉差異 について [p.244-247]

[040604]

ここでもまた再び、なんらかの特別の、機能特定的な差異、くわしく言えばテーマと寄与Themen und Beiträgen の差異がそうした可能性の条件として機能を営んでいると考えられる。コミュニケーション連関は、しかるべきテーマヘと諸寄与が関係づけられることのできる、そうしたテーマによって整序されなければならない。テーマは、寄与を越えて持続しており、短期間であれ長期間であれ、寄与よりも長い時間にわたって存続している意味連関へとさまざまな寄与をまとめあげている。二、三のテーマについてはいつまでも語ることができるし、別のテーマについてはほとんど際限なく語ることができる。また誰が何を寄与できるのかに関しても、テーマをとおして規制することができる。テーマのいかんによっていかなる寄与なのかが弁別されており、寄与をおこなう人も識別されている。そこでたとえば、そこに居合わせる人が誰でもなにほどか寄与しうるテーマを選ぶことは、うちとけたコミュニケーションの必須要件なのである。そうしたテーマは、その人の個人的独自性が他の誰よりも優れているとそそのかされることなしに、みずからの寄与として見分けられうる、十分に個別的な寄与をおこなうチャンスを各人に与えているテーマのことにほかならない。

[040605]

テーマと寄与の差異は、「水準の差異」として不十分ながらも特徴づけられる。
テーマと寄与の差異によって、内容的には否認可能性が調整されている。

  • 一方では、テーマ化の閾が存している。たとえば、卑猥な言動、信心深さないし信仰告白、あるいは一般に心的葛藤の種といったものが存している。
  • 他方では、テーマの受容を前提としたうえで、それぞれの寄与に対してネガティヴなコメントがくわえられたり、寄与されるものが拒絶されたり、訂正されたり、修正されたりすることが可能である。
    テーマが受容されるばあいに、あまりにも多くの寄与は否認されざるをえないということが考慮に入れられなければならないことから、テーマ化の閾が高く設定されるようになるとみてよい。
そうしてみると、テーマと寄与の水準の差異によって、あまりにもコンパクトな否定の傾向──それゆえに不可避的に個々の人間にあてはめられる否定の傾向が──解消されている。このことに対して、個々のパースンがコミュニケーション連関のなかでますます明確に際立ってくる度合いに応じて、近代初頭の文学が注意を払い始めているのは偶然ではない。

[040606] 主題選択の事項的/時間的次元

  • 【事象的次元】 テーマは、事象的な意味内容を有しており、それに基づいていくつかの寄与を整合することが可能である。
    たとえば、女優の情事、株式相場とその解説、新刊書、外国人労働者の子供がテーマになるだろう。こうしたテーマの特定化には──コミュニケーションをさらに続けることに対する関心から生ずる限界を除いて──限界が設けられない。
  • 【時間的次元】 しかしながら、テーマもまた時間的側面を有している。人びとはテーマに対するこれまでの寄与を思い出すことができる。
    テーマは、古くからのものだったり、新しかったり、すでに飽き飽きしたものだったり、またはなお興味のあるものであったりしており、関与者が異なるとテーマとのかかわり合いはさまざまに異なってくる。
    ・テーマは、いつかはもはや新たなる寄与を期待できない飽和状態に達する。そうなると古いテーマが生き残るためには、新しい関与者を補充しなければならない。
    ・逆に、ある種のテーマは多くの関与者にとってあまりにも新しくなじめないがゆえに、およそ有意義な寄与に駆り立てることができないかもしれない。

[040607] 主題選択の社会的次元

【社会的次元】 このことについて最後に指摘したいのは、「社交」の例がすでに示唆しているとおり、テーマ選択の社会的的側面もまた重要である、ということである。

この社会的側面ということで、互いに気心が合っていることだけが念頭におかれているのではない。言い換えれば、テーマによって関与者たちやかれらのおこないうる寄与が相互に多少なりとも折り合いがついているということだけが考えられているのではない。

とりわけテーマ選択の社会的次元が顕在化するのは、コミュニケーションをするさいに関与者たちが可視的な行為のやりとりをすることに多少とも拘束されているばあいである。

[相互作用における再帰的知覚というコンテクスト]

つまり、関与者たちがコミュニケーションによって、みずからの意見、みずからのかまえ、みずからの経験、みずからの願望、みずからの分別のある判断、みずからの関心など、自分自身についての何かを言い表すことで、この社会的側面が顕在化することになるのである。

コミュニケーションは、また自己を呈示し合い、互いに知り合いになることに役立っている。そうであるがゆえに、コミュニケーションは最終的な効果においては、人びとがなんらかの表現様式をとらざるをえず、結局のところコミュニケーションにおいて表示されたとおりに在らねばならないということになってしまうのである。つまり誘惑者は、相手を愛さなければならないことになる。

10章3節 相互行為:「居合わせる」という選択原理

[040608]道徳的テーマの場合

 こうしたコミュニケーションの拘束効果は、コミュニケーションのテーマが道徳的倍音を帯びるばあいに先鋭に現れるのだが、道徳的テーマであればなおさら先鋭化する。
道徳によって、相互の尊敬または軽蔑の諸条件が規制されている。したがって、コミュニケーションの道徳化に適したテーマであれば、相手からの尊敬を引き起こすことが可能である。いいかえれば、そうしたテーマによって自分自身を尊敬に値するものとして呈示して、相手がそれに異議を唱えるのを困難にすることが可能なのである。角度を変えて言うと、誰が尊敬に値するかについてテストできるのである。尊敬のための諸条件というネットで相手を捕らえて、そうした諸条件に相手を従わせることができる。さらには、相手を道徳的な自縛へとそそのかし、そうすることで、相手に勝手なことを許さなくなる。あるいは、道徳化によって、特定の相手を尊重することにいささかの価値をも認めないことを明らかにすることができる。社会の人びとが道徳を手がかりとすることによってどれだけ多くの自由を可能とするかに応じて、道徳は、デュルケーム学派が考えた以上に、人びとの間の連帯の強化に資することもできるし、また逆に相手に対する批判、相手との距離の獲得、さらには相手とのコンフリクトを強調することも可能なのである。

[040609]

 そうしてみると、テーマは、事象次元、時間次元、および社会的次元においてコミュニケーション過程の構造として役立っており、そのさい、

いかなる寄与が、いつ、どんな順序で、誰によって提供されるのかをテーマが決定しないかぎりは、

一般化としての機能を営んでいる。したがって、テーマの水準で、個々のコミュニケーションにおいてはほとんど可視的にならないであろう意味連関が顕在化しうるのである。それゆえ結局のところ、コミュニケーションは、不可避的にではないが典型的には、テーマをとおして制御される過程にほかならない。

同時に、テーマは、言語によって開かれた複合性を縮減しているのである。コミュニケーションにとって、言葉で表現するさいの正しさのみでは十分ではない。テーマを手がかりとしてはじめて、自分自身のコミュニケーション行動の正しさや他者のコミュニケーション行動の正しさについて、テーマとの適合性に照らして点検できるのである。そのかぎりにおいて、テーマはいわば言語の行為プログラムにほかならない。

たとえば、ネズミをネズミ捕り器で捕えるもっとも良い方法が何であるのかということしか問題にならないばあいでも、数々の寄与が可能だが、もはやなんでもよいというわけではない。テーマによって十分に前もって方向づけられることにより、みずからの寄与をすばやく選ぶことができるし、他者の寄与と適合しているかどうかを点検できるのである。さらに捕まえられたネズミがどんな苦痛を味わっているのかを手がかりとして、関与者たちの道徳的感受性を吟味できるのであり、ある人自身からみて、また他の関与者たちにとって、そのテーマが論じ尽くされたと考えられるのであれば、テーマを取り替えることができるのである。