11章3節

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mitlaufende Selbstreferenz

こうした諸考察から導かれる重要な帰結の一つは、あらゆるオートポイエシスにおいて必要とされる自己準拠は、いかなるばあいでも自己を拠り所とするように指示すると同時に自己以外のものを参照するように指示する自己準拠 mitlaufende Selbstreferenz にほかならない、ということである。

「そのこと自体にのみ排他的に準拠すること」という意味での純粋な自己準拠はありえない。もしそうした純粋な自己準拠が生じるとしたら、そうした自己準拠は、任意のあらゆる偶然によってトートロジーを脱することになろう。また次のように言ってもよい。かりに純粋な自己準拠が生ずるとしたら、あらゆる偶然が未規定のものを規定するという点でリダンダントなのであり、機能的に等価であろう。

それゆえ、じっさいには、自己準拠は、参照するように指示されることがらの一つの要因としてのみ生じている。この自己に準拠するということは、要素、過程、あるいはシステムがそれぞれオペレーションすることを可能ならしめている決定的に重要な要因の一つなのである。言い換えると、自己に準拠するということは、要素、過程、あるいはシステムがそれぞれオペレーションするさいに必要な要因のすべてをカバーしているわけではない。そうした自己は、要素であれ、過程であれ、あるいはシステムであれ、純粋な自己準拠からのみ成り立っているのではけっしてない。同様にして、純粋な自己準拠だけが自己準拠として言い表されているのではない。自己準拠の自己は、純然たる自己準拠を超え出なければ、この純然たる自己準拠の自己がどのようにして自己の一部をなしているのかを把握できない。そんなわけで、ある行為の意味は、それに引き続いておこなわれる行為のうちに映し出されそのうえで確証されると考えられることによって、その全貌が尽くされはしない。つまり、ある行為の意味がそれに引き続く行為のうちに映し出され確証されると考えられるということは、たしかに行為の意味にとって不可欠のモーメントではあるが、しかしそれで行為の意味の全体が汲み尽くされるわけではない

たとえば一人の紳士が満員の路面電車のなかで一人の婦人に席を譲ろうと申し出るとしよう。このばあい、紳士がこのように行為することの意味の一部は、婦人がその席に座ることで紳士の行為が報いられ、婦人に席を譲る行為であることが確証され、その結果 その場にふさわしく 成果のある行為であるということである。(こうしたことが紳士の行為の意味の一部にすぎないということは、それからはずれた事態の進展、つまりたとえば婦人がその席に座らずにその場所にハンドバックを置いた!という状況を思い浮かべれば確められよう)。 いうまでもなく、婦人がその席に座るという、紳士が席を立つことに対応して期待される行為は、それ自体としては紳士が婦人に席を譲るという行為の意味の一部をなしている。結局のところ問題となっているのは、紳士が席を立った時点で婦人が座ることが可能であるということなのである。

社会システムの自己準拠的オートポイエシス的再生産の遂行は、回帰性が予期されなければ、まったく不可能であろう。しかし他面では、予期される回帰性の実現だけでは十分ではなく、予期されたこと以外の意味が必ず取り上げられてはじめて、出来事から出来事へ、行為から行為へと接続することが可能になる。まさしくこのことのゆえに、自己準拠にはあるものを表示するさいにそのあるものとそれ以外のものを区別することが必要なのである。

いまあげた例で言えば、みずからの行為をみずから規定するさいに相手の行為との関係を考えること、つまり、ある要素がそのような要素であるさいに、それ以外の要素と何らかの関係にある要素であることが、必要不可欠なのである。