(20040710) 山本貴光+吉川浩満 『心脳問題:「脳の世紀」を生き抜く』

発刊記念イベント
http://wsb.cc.kindai.ac.jp/ichs-html/tcc/event/shinnou.html

場所は四谷:

どうして地図の頁に住所も書いておかないかな。あとポップアップさせる*1のはヤメれ。

近畿大学 東京コミュニティカレッジ

  • 〒160-0004 東京都新宿区四谷1−5
  • TEL:(03)3351-0591 (電話受付:午前9時30分〜午後5時、日曜・祝日は除く)
  • FAX:(03)3353-7300



いけるかもしれないので、あらかじめ「質疑応答時間」用の「質問」を(出不ろぐに)用意しておくこと。>自分
「質疑応答時間」が無かった場合たぶん暴れますが?>誰へともなく

ていうか、「読後感想文」を書こうかとおもったんですが、なかなか考えがまとまんないんですよねー。自分がどこに引っかかっているのか、それが自分にもわからない。もうちょっと時間が必要かな。
ただ、もう少し言えば、「どこに」ということだけなら、「わかって」る。
  • 1)【「前半」-と-「後半」】
    前半の「ある種の知的な(心的-脳科学的な)」噺と、後半の「(また別の)ある種の知的な(脳科学的-政治的な)」噺とは、どのように架橋されているのか/されうるのか
  • 2)【「後半」内】
    パーソンズ=橋爪-型の「政治」概念と、フーコー型の「権力」概念(さらにはドゥルーズ風(?)「コントロール概念)は、どのように架橋されているのか/されうるのか*2
    • これがうまく行っていないと、「後半部」を総体として「政治的」*3というカテゴリーでまとめることはできなくなるのでは。
    • むしろ、政治という「なんでも-飛び出す-びっくり箱/Deus ex Machina」的概念*4の中で、読者にはよく見通せないなにか神秘的な事情でもって、様々な「エピソード/トピック」が結びつけられているように見えなくもない、と思ったのは私だけだろうか?
  • 3)つまるところ、だから議論はここに落ちる↓:
    ギルバート・ライルのロジックが破壊するのは、はたして「心」にまつわる日常的なビジョン-に対する-「脳科学」-による-修正repair だ け なのか? ‥‥そうではなく、このロジックにかかれば、 「心」についての、そしてまた、「政治」についての「ある種の知的なムード」 (から生じる「仮象」)も やはり無事では済まない のではないか? しかし──もしもそうだとすると、ここで次の疑問が沸いてくるわけだが──、「心のはなし」(前半)と「政治のはなし」(後半)を結びつけることで成り立っているこの本は、(ある事柄を「心的」だとか「政治的」だとかと名指す=見做すようなたぐいの)そうした「ある種の知的(で、──学術的または読書人的に──習慣的あるいは「制度的」)なムード」 -に寄りかかって/を前提として- こそ 成り立っている、という可能性はないだろうか。
    ‥‥だって、いったい ってなによ? 政治 ってなによ?
といったようなこと。
そこまでは「わかっている」のだけれど、それ以上に何をいえば、その「わからなさ」を説得的に示すことができるのか、が「わからない」、のだった。
ただまぁ、これ↑が自分でもはっきり「わかっていない」からこそ、私には本が書けない(ので書かない)のだ、という気もするので。やっぱりだめかも....。


【追記】20040623 13:20
昼飯を食べながら、プリントアウトした自分のメモ↑を読んでいて──そして、著者お二人が【哲学の劇場】主催者であることを思い出して──、自分の言いたいことは、古いヨーロッパの形而上学的伝統から言葉を借りれば、次の様に簡単に定式化できることに気がついた:

  • 著者は、「政治(的)」という言葉を──あるいはまた「心(的)」という言葉も──、超越概念 transcendentia, transcendentalia として用いてはいないだろうか?
    • そして、これが可能になっているのは、「政治」(という言葉)と「権力」(という言葉)の、ユルい(連想的)併置によるのではないか?



ここまでは“よい”。(俺様的には。)
私に「わかっていない」のは、この先にある次の点である。すなわち、

仮に「政治(的)」*5という概念が 超越(概念)的 に用いられていたとして、では、いったいそれの何がまずいのかso what?

という反問に どのようにhow - 答えるか(=示せるか) という点──、これである*6


ただし。
『心脳問題』で展開されているロジック-を借用/に依拠-してよければ、ある程度は示すことができはするのだが。このように──:

  • この本は、「脳科学的(な諸知見)を、ウルトラに使用することはできない(ある種の「ミステイク」*7を犯すのでなければ)」と主張している。
  • しかし、この議論は、「政治的」という言葉にも、「心的」という言葉にもまた当てはまるのではないか?
    • つまり、「政治的」(あるいは「心的」)という概念も、ウルトラに使用することはできないのではないか?(ある種の「ミステイク」*8を犯すのでなければ)

言い換え:

  • なるほど 脳科学(的知見)に、「なんでも-飛び出す-びっくり箱」の役割を与えるのは間違っているだろう。 しかしそれが正しいなら──正しいと思うが──、
  • それと同様に 、「政治」*9(という概念)に──それを「なんでも-飛び出す-びっくり箱」として使うような──過剰負担を強いるの も、やはり 間違っている、という ことになる のではないか?



とりあえず今思いつくのはこんなところまで、かなぁ。
さらになんか思いついたらまた書きます。ということで。



【追記】20040625 10:58



【追記】20040624 00:49
ASIN:4255002770 と書いておかないと ほつまさんのアンテナ(not はてなアンテナw)に引っかからない罠。
ぉぉっ。山形氏のレビューがでてますか。ていうか論点がほぼかぶってるような? 上記エントリは、山形コメントを読む以前に書かれたものですぜ。念のため。山形さんのほうが議論が(圧倒的に)明快で、私のほうは著者さんたちに(山形氏よりは)「共感的」だ、ということでひとつ。

*1:ポップアップしかさせない。

*2:パーソンズ「規範-内面化-社会化」ストーリーと、フーコー「権力-規律」ストーリーについて(それらのみを取り出しきて)比べてよいとするなら、両者の親和性は確かに高いと私も思う。したがって、それらの「併置」には、ほぼ異論はない。は、それらと「政治」との関係にある。(そして、ここにさらに「コントロール概念が入ってくると、話に見通しをつけるのが──少なくともいまの私にとっては──激しく難しくなる。)

*3:「倫理的」という言葉も使われているが、「同じ」議論が成り立つと思う。

*4:「カル■タ的概念」と言い換えてもよいが。

*5:あるいは「心(的)」

*6:© 渡辺二郎

*7:© ライル

*8:© ライル

*9:あるいは「心」あるいは「倫理」(という概念)に。