語ること/示すこと:エスノメソドロジーについて

29日のエントリに対して、K田さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。



K田さん曰く:

ところで、もしエスノメソドロジーが「語る」ことよりも「示す」ことに関心を寄せる試みであるのならば(理論による後付け的な「説明」なのではなく、そこで何が行なわれているのかを「示す」試みであるのならば。そして、その「示す」という態度に何らかの価値や倫理性が含まれるのであれば)、やはり「エスノメソドロジー研究は、『一般化』を行わない」という宣言は奇妙な宣言に聞こえるように思う。この宣言はあからさまに冗長なのだ。もし、「示す」と言うのであれば、端的に示せばよく、それ以上に語る必要はない。そしてさらには「エスノメソドロジー」という一般名詞を主語にして語る必要すらない。そこは、ウィトゲンシュタインが『ウィーン学団』において述べているように、ただ「一人称」で示せばよいのではないだろうか。そこでは、「端的に示す」という態度が「端的に示」されるのでなければならないだろう。「端的に示す」ということを雄弁に語ることは、単純に矛盾しているように思われる。

ところで、なぜ「ただ「一人称」で」なのでしょう?

エスノメソドロジー研究は、『一般化』を行わない」という宣言が奇妙なのは、エスノメソドロジーが「一般化的な言明を行なっている」と見なされる点にあるのではなく、そもそも「エスノメソドロジー」という一般名詞を用いることによって一般化の可能性を先取りしてしまっている点にあるのではないだろうか。 そして、「エスノメソドロジー」という語彙または概念自体が、現在においては高負荷状況に陥ってしまっているような印象すら受ける。相互行為(論)のまだ見ぬ可能性と希望の泉のようなものとして「エスノメソドロジー」は捉えられているように思えるし、あるいは、あらゆる差別を告発することができる究極の抵抗の源泉としても、「エスノメソドロジー」は捉えられているように思う。
そうして「エスノメソドロジー」が主語として用いられるほど、エスノメソドロジーによって「端的に示す」ことを「端的に示す」ことは難しくなっているように思えるのだ。



一点目。「奇妙さ」と「過剰さ」について。

エスノメソドロジー研究は、『一般化』を行わない」という宣言は奇妙な宣言に聞こえるように思う。この宣言はあからさまに冗長なのだ。

という指摘は「ごもっとも」なようにも思えるのですが。しかしこの奇妙さは、その「宣言」も その宣言が行われる「やり取りの場」に埋め込まれていることを無視した時に登場するものかもしれません。
私が述べたかったのは、エスノメソドロジストの「宣言」が、まさにK田さんが引用されているウィトゲンシュタインの言葉、

価値とは特定の精神状態のことか。それとも、何らかの意識所与に付着している形式なのか。わたしは答えよう、ひとがわたしにどういおうと、わたしはそれを拒むだろうが、それは、その説明が誤っているからなのではなくて、それが説明だからなのだ、と。
ひとがわたしに何らかの理論になっているようなことをいうとすれば、わたしはこういうだろう、否、否、そのようなものに対してわたしは関心がないのだ、と。たとえその理論が真理だったとしても、そのような理論にわたしは関心を抱かないだろう -- それはけっしてわたしの求めているものではないだろう。

と同様の仕方で登場するものなのだ(ろう)、ということでした。
おそらく、この文を引用したK田さんは、このウィトゲンシュタインの言葉を「奇妙な」ものだとも「過剰な」ものだとも 考えずに そうしたのではないでしょうか。それと同様の意味で/その限りで、エスノメソトロジストの「宣言」も、「奇妙」なものでも「過剰な」ものでもない、と言ってよいのではないかと私は思います。

逆に、「エスノメソドロジストの宣言」は──それが「奇妙」だといえるとするならば──、上記のような「ウィトゲンシュタインの宣言」が「奇妙」であるのと同様な仕方で「奇妙」だ、ということ。

ところで、K田さんのほうのコメント欄にて、【「EMは〜である」という語り方に罠がある】──この点に私も同意はします──というやりとりがされています。
たとえば、上記のウィトゲンシュタインの場合ならば、「特定の理論的構えを既に持って(しまって)いる人からの問いかけ」に応えて、「理論ではない」という言明が登場しているわけです。(これは、社会学というコンテクストにおいて、エスノメソドロジストが「応え」なければならないような、そのような場面に相当するでしょう。)
他方、(エスノメソドロジストならざる*)私のエントリの場合は──「エスノメソドロジー研究とはどんなものなのか」を理解したいということだけでなく、むしろ エスノメソドロジーを だしに──社会学の知的ミリュー知的である社会学のミリュー]について語っていた、ということではありました。

二点目。

エスノメソドロジー」という語彙または概念自体が、現在においては高負荷状況に陥ってしまっているような印象すら受ける。相互行為(論)のまだ見ぬ可能性と希望の泉のようなものとして「エスノメソドロジー」は捉えられているように思えるし、あるいは、あらゆる差別を告発することができる究極の抵抗の源泉としても、「エスノメソドロジー」は捉えられているように思う。

こちらは、エスノメソドロジストのせいではありませんねw。そのように↑捉える「外野側」の問題かと。これに対しても──予想するに──「エスノメソドロジスト」であれば、「そうではない」と応答するのではないでしょうか。(もしもそうじゃない「エスノメソドロジスト」がいたとするならば、私には????です。)


三点目。

そうして「エスノメソドロジー」が主語として用いられるほど、エスノメソドロジーによって「端的に示す」ことを「端的に示す」ことは難しくなっているように思えるのだ。

知る限り、おおむね「エスノメソドロジスト」は、「端的に示せばよく、それ以上に語る必要は無い」というように為しているように見えます。なのでこれは、「エスノメソドロジスト」に対しては、「杞憂」でしょう。
私が気にしているのは、「エスノメソドロジ(スト)ならざる社会学(者)」のほうなのでした。