「再記述」についての追記

自分の立てた問いに答える。(単に書くのを忘れてただけだけど。)

ところで、ヘッセは──『社会の芸術』に続いて──GdG序文の最後にも再び登場するが、そこでの「再記述」への言及はなかなか微妙だ。ベタに読めば距離を置いたシニカルなコメントにしかみえないんだが。「これまでの社会学は──説明のつもりで──再記述をやってきたにすぎない(大意)という発言は、

  • a)俺は再記述以外の/以上のことをやっているわけだが

という自負(?)に裏打ちされているのか、それとも、

  • b)俺がやってるのも再記述だが、
    • 俺は勘違いしていない
      とか
    • ほかにやりようがないぢゃん(プ

とかいいたいってことなのか。
それとも‥‥?

「再記述」は、『社会の理論』シリーズの途中*からルーマンのテクストに登場するようになった言葉であるが、用法を系統的においかけてみると、ほぼすべての場面で「肯定的」に使用されている。
てことは、「ここでも解釈(b)の線で読むべきである」をもって結論とする。

* 『社会の経済』(1988)にヘッセへの言及は なく、『社会の学』(1990)で登場する。登場回数は『社会の教育システム』(遺稿:2002)が(おそらく**)もっとも多い。
** まだ著作全文を カッチリと は精査してないので暫定的見通し。(ちなみに『教育』での訳語は「リディスクリプション」。 ‥‥てゆか訳して無い.....。)


なお、『社会の芸術』における登場箇所はこちら:


ところでヘッセ自身の議論は「説明だって再記述(のひとつ)だ」というものだったはず。上のいいかたはちょっとヘン。

ルーマンらしい、とも言う。