読書会@西荻。
Die Gesellschaft der Gesellschaft
- 作者: Niklas Luhmann
- 出版社/メーカー: Imprint unknown
- 発売日: 2007/05/24
- メディア: ペーパーバック
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ディスカッションをつうじて陳述上の問題がいくつか判明。
「〈形式/メディア〉区別が、システムの作動にたいしてどのように関係づけられているのか」ということ自体がそもそも問題であるはず*なのに、その点について無頓着に議論が進んでいく。たとえば、コミュニケーションにおける〈形式/メディア〉の例として、いきなり「語/文」という区別が持ち出されることは──〈形式/メディア〉の例示であるよりもむしろ(!)──「無頓着であること」の例示になってしまっている。
「形式・メディア」の「要素」への分解──=〈ルース/タイト〉という区別の導入──は、そこにおいてもレリヴァンスの問題を引き起こす。
ルーマンがその点をまるで逸しているとはいわないが、
たとえば、ここでは・すくなくとも明示的には焦点化されておらず、課題として言及すらされていない。
だから(!)なおさらのこと、たとえば「語/文」という区別にしても、(そもそも それが、なぜ・何に対する「例」になるのか、そして/したがってまた、)それが-システムの作動と-どのようなレリヴァンスを持つのか という論点が、課題として前掲化されない。
‥‥この点は、しかし、経験的な研究においては 真っ先に問題になることである。しかもそれだけではない。「一般理論」あるいは「理論的」な議論においても、「メディア」概念(=〈形式/メディア〉という区別)を導入することの「理論的」な意味は
その点をクリアにすることによってしか与えられないはずだ。
逆に、こうした陳述をみると、世に「ルーマンによれば‥‥」という書き出しでもって──あるいは「ルーマンを参照して」と称して──「メディア」だの「コード」だのについて、「ルーマン理論の応用」やら「独自の見解」やらといった名目で恣意的な思いつきを垂れ流すゆるい議論が少なからず登場する理由もわかる。「作動を記述せよ」──いまの場合は「〈形式/メディア〉を作動に即して記述せよ」──というシステム論の格律**に ルーマン自身がちゃんと従っていないから、それを参照する側でも「どれが恣意的で、どれが適切なのか」という点に注意が向かない(‥‥のだろう)。
もっとも「ルーマンがそうしていないから」といって、「だから恣意的なことを言っても良い」ということにはならない筈なのだが...。