スピリチュアリスムについて

[‥] 例えばベルクソンの「自由」が、それ以前の、あるいは同時代の哲学が擁護しようとするそれといかに隔たっていることか。当時ありふれた「決定論批判」を行うかに見えて、その背後では「自由」がついには主観の内在性そのものの名となるという、思いがけない議論が遂行されている。また、かの「純粋持続」という時間概念も、単に等質的時間を批判しては終わらない。それは、過去把持とその変様によって体験流を捉えようとするような時間論への潜在的批判であり、ひいては志向性や否定、脱自といった諸概念を先回りして疑義に付すものだ。彼は「精神」をして、今ある以上のものを自らの内から引き出してくる存在と定義したが、これは彼の自由論・時間論と密接に関わりながら、既存の「精神」概念を大きく変更する試みに他ならない。

 あるいは、彼が「道徳」や「宗教」を扱う時、本当のところは何が問題になっていたのか。何をいまさらと思われようが、よく考えるべきだと思う。ベルクソンは「善」や「悪」、「価値」を語らない。キリスト教神秘主義を特権視しながらも、「罪」や「赦し」、「救い」といった言葉は現れない。当然、彼は「道徳」を論じ損ねた(いや、新しい価値を説いた)、キリスト教に近づきつつもその十全な理解に至らなかった(いや、晩年には至った)、といった種類の論評は多いわけである。しかしそのような評者はベルクソンの視点変更をまさに見逃しているのであって、おそらくベルクソンが「道徳」や「宗教」の語を通じて語ろうとしたものは、通常それらの語が指示していよう事柄とはうまく重ならないのだ。詳細な検討のための雑な目印として言えば、彼が描いたのは、共同性と他者性をめぐる一般的力学とでも名付けられよう何かであったはずだ。

 空手形を切るつもりはない。

手形は切ったぜ、というわけですな→:isbn:4423171422