涜書:大屋『法解釈の言語哲学』

夕食。

法解釈の言語哲学―クリプキから根元的規約主義へ

法解釈の言語哲学―クリプキから根元的規約主義へ

第3&4章。
3章むつかしかったのでもういちど読んだ。

ウィトゲンシュタインに関する標準的解釈とクリプキとの関係については(最初のほうに)ちゃんと書いてあった。すまんかった。


■準拠問題

ルールの理解(understanding)とルールの解釈(interpretation)とは異なる。ルールを理解する(ルールの意味を説明する)ことは何がルールに合致している(いない)か述べることができるということであり、ルールとルールの適用は表裏一体の関係にある。確かに、ある行為をルールの正しい適用として決定するのはルールであると言うことは可能であるが、この言明はルールの外的属性の言明ではなく、なぜ当の行為がルールの正しい適用であるかについての説明項としてルールに言及しているのではない。ルールとルールの適用の関係は内的(文法的)関係であり、ルールの意味はその具体的適用の中で顕示されるのである。[小林 1998:24-25]

これに対して私は、クリプキの問題がわれわれと異なる結果を出した他者に対して どうしたら自分たちの答えを正当化することができるか という点にあることを見落としていると指摘したのであった。われわれが規則を前提した意味を直接認識するという事態が、ここにおいて正当化として認められるとは思えない。われわれはどうして他者に対して自らの規則使用を正当化することが可能なのか。[p.113]


このあたり↓の議論には大略賛成できるような気がする。ので、おおやくんとの距離は(昔思ってたほど)大きくないのかもしれない、と思い直した。でもこの本で「脱文脈化」と呼ばれているものは、俺なら「再文脈化」──あるいは「別の文脈化」──と呼ぶだろうな、と思った。なので、距離は「脱文脈化」と「再文脈化」の距離とおなじくらいのものか(けどそれはやはり小さくないような気もする)。

[規制的理念としての普遍的原理が存在しないと考えるとき、何が正しいかをめぐる議論は無意味化するだろう、と]そのように考えるとき、そこにおける「原理」はそれに照合することで結論の成否が検証できるような規則・論理的に議論に先行するものと考えられてはいないだろうか。[‥] 井上の普遍的文脈主義においてもデリダ脱構築としての正義においても、言明の意味の実在性は それを否定すれば規範をめぐる議論が無意味になってしまう ということによって支えられていたと考えることができる。つまりここに存在するのはある種の背理法なのだ。 [p.126]

ところでこれは「同時性」ネタだ。

だけど次のステップでわからなくなる。なんで「規約主義」なんだ。私の教養か理解力(あるいは双方)に問題があるのか。

しかし[‥]疑問符が付されたのはまさにその前提──言明が何を意味するかが確定している という点なのであった。従って、我々としては、言明の意味の存在を仮定しなくとも規範をめぐる議論が可能であることを挙証すれば、この背理法を覆すことができるだろう。[‥]手短に要約するならば、むしろこう考えなくてはならないということである──個別具体的な規範的判断をある原理の適用と理解するときに、その原理の意味がつくりだされていく。和田仁孝のポストモダニズムはそのとき・その場での一回起性の出来事のなかに文脈を越えた普遍的な要素を見出そうとする脱文脈化志向を、権力的な知を創造する行為として批判した。だがこの点はむしろ積極的に捉えられなくてはならない。適用の結果から独立に言明の意味を想定することによってではなく、規則の意味をそれを適用する試みの中で示されるもの──逆にいえば遡及的に構成されるものと捉えることによって、我々は規範をめぐる議論を再び可能にすることができるだろう。

「規則の意味をそれを適用する試みの中で示されるもの」と捉えることが、なぜ「遡及的」と呼ばれるのか。それがわからない。

いちおうこれとかが「答え」か:
13) 使用の場において製作された意味は、しかし使用に先立って存在していたものとして遡及的に扱われ、我々の新年においては過去へ投げ込まれる。そのため我々は、理論的に先行するというこの事態を(フィッシュと同様に)時間的先行と取り違えてしまうのである。[p.141 →4.4.1.3]
ということは「遡及的に構成される」のではなてく、「同時的」なのではないですか。


このあたり↓とかむつかしいよ。

11) 松阪陽一は、[‥]根源的規約主義の議論が「全面的に論理実証主義者の側に向けられており、『穏健な規約主義が誤っている』という以外になんら実質的な要素は見出せない」[松阪 1991:36]と指摘している。彼によれば、根源的規約主義を支持するためには「十分な体系の公理が、適切な意味で規約の産物にすぎないということを説得的に論じる必要がある」[松阪 1991:31]のだ。この指摘に対する野矢茂樹の応答が次節(4.2.2節)に相当するものだが、冒頭において、法のすべてを規約であると考えることが持ち得る意味については注記しておいた。参照、1.1節。[p.139]

指示先は 1.1 の注3:

法的三段論法においては、帰結たる命法は法文を基礎とした演繹によって必然的に導出されたものである。だからこそ、事実認定が正しかったとすれば、根拠となった法文の規範性が継承され、個別の命法が規範性を持つということを正当化できるのだ3

3) 従って、法の領域のすべてを規約と考えることには 何事か我々の決定と合意に拠らない規範が存在する という立場とは異なる、独自の意味と価値があることになろう。