To be going to die - Sein zum Tode

夕食。こんなに頽落してていいのか。

有と時 (ハイデッガー全集)

有と時 (ハイデッガー全集)


現実的なものは可能的なものとともに与えられる。この働きが意味と呼ばれる。
意味がわかると、いろいろなことができてしまう*。たとえば、或るもの「では無い」とか 或るもの「が無い」とかいう可能性についてかんがえることができてしまう。これはいろんないみですごいことだが、そのすごいことの例の一つに「自分が無い(〜死ぬ)という可能性──無いことができる〜死ぬことができる、ということ──についてわかってしまう」というのがある。

* といっても、人間に その他のやり方ができるわけではないが。
別様可能性なしに わかってしまう者 は 天使あるいは人でなし。(そして石には世界がなく、動物は世界貧乏だ((c) ハイデガー)。)

そこで、「死」というのを手がかりにして 可能性様相について──〈可能性/現実性〉という様相的区別(〜意味)について──検討してみましょう*、というのが『存在と時間』中盤のハイライト。

* ちなみに「死」はこの本の主題ではない。主題はあくまで「在るということのいみがわかる」とはどういうことか、のほうにある。


さて。
可能性について二値論理的にかんがえると なんだかおかしなことになる。──ということが、「死の可能性」を例にしてみるとわかる。

もしも死んでいるなら君は無い。
もし君が在るならまだ死んでいない。

だから──エピキュロス曰く──君は死を恐れる必要は無い。

ハイデガーが言うには、「可能性」というものを「現実化するもの(=未来の現実性)*」とだけ捉えていると、この──ただしいようにもみえるけどでもやっぱりどこかヘンな──エピキュロス的議論からは抜け出せない。

* ハイデガーは、この、「現実化するもの」として捉えられた「可能性」──なにかを来るべき現実として待ち受けること──を「期待Erwartung」と呼ぶ。

なので、なにかべつの捉え方ができるはずだ。
「可能的なもの」への別のかかわりかたがあるはずなのである。そこでまずそれに名前をつけてしまう(ハイデガーが)。 ──「Vorlaufen」。
てことで、「無いことができる」ということをめぐる〈Erwartung / Vorlaufen〉という区別。それが問題だ。


以下略。