涜書:グレーシュ『『存在と時間』講義』──理解可能性について

[Erlebnis] スレ微妙に復活。
ディルタイと比べて読むと、ハイデガーの議論の明晰さに涙が出ますな。 いいすぎましたすみません。

『存在と時間』講義―統合的解釈の試み

『存在と時間』講義―統合的解釈の試み

存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)

存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)


「理解」にかんする心理主義批判。ちょっと写経。


存在と時間』において、「理解」は二つの仕方で話題になっている。ひとつは、「学に記述されるもの」(=現存在)の側で生じている事柄として。もうひとつは、「学として記述する側」で用いられる方法(=現象学的解釈学)として。

前者は、現存在の存立に「理解可能性」が構成的だ、という話。(そしてまた、「理解」は心的な事柄ではない、という話。)
後者は、その「(理解の)可能性」の遊域をたどっていく仕事を「解釈(学)」と呼ぶ、という話。
そして、この「可能性をたどる」という意味での「解釈Auslegung」は、現存在の側でもやはり生じている。
言い換えると、

ここでは、「記述対象の側で理解が生じていること」が、学に(現象学的解釈学という)方法を示唆するとともに・方法の裏打ちを与える、という議論の構図になっている。

しかしこのことを「解釈」──そして「解釈学」──と呼ぶことは非常にミスリーディングだと思う。何かを為している(あるいは、経験している)最中に、われわれは普通 めったに(普通の意味での)「解釈interpretation」など行わないのだから。(あえて「解釈」が必要になるのは、なにか困ったことが生じた場合、などだろう。)
ちなみにハイデガーは、自分自身のための術語としては Auslegung を用い、(彼が批判しようとしている)「通常の学的解釈」のために Interpretation をとっておいてあるようである。

このあたりは、ルーマンの議論との比較検討作業が待たれるところですな。>誰か

第31節 情態性から理解へ──可能的なものの意味

 本節では、現存在が世界の 内に 存在する仕方を特徴づける実存論的構造[=〈情態性|理解|語り〉]の中でも、第二のものが扱われる。すなわち、理解すること(Verstehen)である。

ここで今一度、諸々の実存論的構造は「等根源的」であるという原理を思い起こしておこう。実際、情態性から理解への移行は、闇から光への移行のようなものではない。情態性を曖昧で盲目的なものであり、その意味で「理解不可能」なものだと考え、気分づけられているときに何を感じているのかを 説明 してくれるような外からの証明が必要だろうと考えるならば、誤りを犯すことになってしまう。実際には、情態性にはすでに「理解」という形態が含まれており、また逆に、いかなる理解も「気分づけられて」いるのである(SZ 142)。

 ハイデガーはまず、「理解する」という用語の 認識論的な使用法を退ける。

それは、「説明(Erklären)」と「理解(Verstehen)」というディルタイの有名な二分法が示している用法である。ディルタイのように、自然諸科学に固有の説明的な探求法の他に、精神諸科学に固有の理解的な探求法があるかどうかが問題になるのではない。この種の認識論上の対比は、認識様相を対比し比較しているのであって、存在様相を記述しているのではない。だが、

ハイデガーが関心を抱いているのは、現存在の構成に「原初的な理解作用」(「基本的な」ということもできよう)が含まれるのかどうか、ということだけなのである。
 実際そのとおりであることは見当がつくが、それを根拠づけなければならない。現存在は「理解すること」を意味するというのは、現存在とは世界内存在として自分自身に関わる存在者であるという主張を通じて、最初から示唆されていたことであった。現存在のこのような特徴は、開示性(Enschlossenheit)と有意義性(Bedeutsamkeit)(SZ §18)という付随概念によってさらに強化されることになる。

そもそもディルタイも、『精神科学における歴史的世界の構築』ISBN:B000J800Z8 の中では、「基本的理解作用」をわれわれのもっとも日常的な行動に即して、すなわち、まったく認識論的ではない文脈で論じていたのである。

 この基本的な「理解」は、何から成り立っているのだろうか。

情態性に関する分析が 気分(Stimmung)という存在的現象を引き合いに出していたのと同様に、理解の意味を特徴づけるために、ハイデガーはまず存在的な領域の用語を動員してくる。「理解する」(分かる)という表現は、ごく基本的な意味でとらえた場合、「あることを司る」「その任に耐えうる」「その能力がある」といったことを意味している。こうした表現は、別の言い方をすれば、能力、実行力、ノウハウ──これらは場合によっては、狡知、器用さ、抜け目なさといった姿をとることもある──を示すものである。  もちろん、これらは存在的な特徴づけにすぎず、ここで「理解する」という語が意味すべきことがらを とりあえず近似的に示しているだけである。しかしこうした説明には明らかに戦略的な意味がある。つまり、それによって、理解という概念を不当に独占してきた認識論の支配から われわれを引き離そうというのである。その次になすべきことは、より存在論的な用語で、以上の例に対応する存在様態を特徴づけることである。

さて、ここで問題となる「理解」という存在様相は、「存在可能(Seinkönnen)」、可能的存在(Möglichsein)(SZ 143)に関わるものであり、その意味で 実存的可能性に関わるものである。

 ここでわれわれは、ハイデガー存在論的探究の主要な転回点に到達する。つまり、理解は 存在論の中に 可能的なものの次元 を導入するのである

このことによってハイデガーは、ハルトマンの存在論のような「様相存在論」へと向かうのだろうか。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。というのも、ハイデガーは、伝統的な存在論のように、可能的なもの という概念を 必然的なもの というカテゴリーと対立させて使用することは拒否するからである。たしかに、可能性という概念に 論理的な意味 だけではなく 存在論的な意味 も与えようとした点では、伝統的な存在論は間違っていなかった。だが、目前性[=事物存在性]の枠内にとらわれていたために、伝統的な存在論は、「可能的なもの」を「非現実的なもの」として、つまり、いまだ現実化されておらず、必然的存在よりも明らかに実在性の少ないもの と考えざるをえなかった。こうした文脈では、可能的なものというカテゴリーは、「存在論的に見れば、現実性と必然性よりも低いもの」(SZ 143)となるのである。

 ところで、実存論的な意味でとれば、可能性は「現存在のもっとも根源的で究極的な、積極的な存在論的規定性である」(SZ 143-144)ということになる。

それゆえ、ムージルの『特性のない男』ISBN:4879841242 の最初で示された「現実感覚」と可能感覚の対立は、全面的に乗り越えられることになる。一方で、実業家の「現実感覚」があり、他方で、経済的に厳しい現実に適応できない人々のノイローゼ的な夢想がある、というのではない。

現存在は、もっぱら可能性の用語で自己を理解するのである。

[...]

[...] もちろんこれは、現存在とはあらゆる「事実上の」拘束を免れた形而上学的な綱渡り師であるという意味ではない。たしかに、現存在は 何もかも事実の次元に縛られているというわけではないが(...)、とはいえ 可能的なもの という実存論的概念は、先行するすべてのものが前提とする基本「所与」としての 事実性 を魔法のように消してしまうわけではない。より正確にいえば、情態性の意味である被投性をあらためて問い直さねばならない理由はまったくないのである。

私はしかじかの計画を自由に採択し、決定を下す設計主のような存在ではない。それどころか多くの場合、私は意図しなかった諸可能性の中に邪魔者のように「入り込んで(hineingeraten)」しまっている。したがって、「現存在は 自分自身に引き渡された可能存在であり、徹頭徹尾 被投的な可能性 である。現存在とは、自らにもっとも固有な存在可能 へと向かって 開かれてあるという可能性なのである」(SZ 144)。

 実存論的な理解とは、この可能性に関する「知」であるが、それは「内在的な自己知覚」から出てくるものではない。というのも、自らの生を日常的に遂行する中ですでに「知って」いることは、内観をどこまで進めてもけっして見いだされないからである。こうしてわれわれは、理解するということを学術的に定義することが出来る。

理解するとは、実存論的には 現存在自身が自らに固有の存在可能という仕方で存在することであり、しかもこの存在することは、それ自身において、この存在すること自身にとって存在するということの何が問題であるかを開示しているのである。(SZ 144)

 この定義は、理解の次のような特徴づけによってさらに明確になる。すなわち、理解とは「可能性」の絶えざる探究であるということは、理解に 企投的構造 を認めることを意味するのである。こうして「企投(Entwurf)」という概念が、情態性の特徴である「被投性」と相補的な概念となる。「企投は、事実的な存在可能の遊動空間の実存論的存在体制である」(SZ 145)。 [...]

[...]

 現存在は、可能的なもの へと 自らを企投することによってのみ 実存する。だが、何に向けて自らを「企投」しているのかを、現存在は必ずしも明晰判明に意識しているわけではない。

志向性が主題化と同義であるとすれば、理解が志向的構造をもっていることは明らかであるから、理解は主題化の行程と同一視されねばならないことになるであろう。だが、

ハイデガーの強調するところでは、主題化は 企投されたものからまさしく可能的なものという正確を奪い取ってしまう。それゆえ、理解を可能的なものとする規定は、きわめて真剣に受け止めるべきものである。「理解とは企投することであり、そこでは現存在が諸可能性として自ら自身の可能性であるような存在様式である」(SZ 145)。

 可能的なものを、論理学(様相論理学)のカテゴリとしてではなく存在様式として規定することによって、われわれは逆説のただ中に身を置くことになる。 [p.213-218]


そういえば、「可能性」──〈Erwartung / Vorlaufen〉という区別──については、まえにこんなことを書いたことが。