数十年ぶりに再訪。『社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』(1958)の続編論文集。
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Ethics and Action (Study in Ethics & Philosophy of Religion)
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これクソむつかしいわ。あとで精読する。
- 緒言
- 未開社会の理解(1964)
- 自然と規約(1959-1960)
- 人間の本性(1969)
- ホッブズとルソーにおける人間と社会(1971)
- ウィトゲンシュタインの意志論(1968)
- やろうと努めること(1971)
- 道徳判断の普遍化可能性(1965)
- 道徳からみた行為者とその行為(1968)
- 善人に災いはありうるか(1965-1966)
- 倫理的賞罰(1970)
訳者のひとがこんな論文を書いておるね。
- 松本洋之(1991)「ウィンチと異文化理解」 in 『科学哲学』vol.24, p.31-44
http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/contents/Contents_data/No_24.html
「社会科学の哲学」論争の動向紹介。http://philsocsci.googlepages.com/japanesecv
- 吉田 敬(2005:報告)「社会科学の哲学とその現在」
- 吉田 敬(2008:短評)「社会科学の哲学の現状」
80年代における「合理性論争」再燃について:
こうした異文化の合理性を巡る議論は80年代以降、一時期下火になったのだが3、1990年代に入り、サーリンズとオベイエセカラとの論争という形で、再び注目を浴びるようになった。サーリンズとオベイエセカラは、十八世紀後半のハワイにおけるクック船長の神格化とその死を巡って、激しい議論を繰り広げてきた。サーリンズは著書、『歴史的メタファーと神話的実在』(Sahlins 1981)、『歴史の島々』(Sahlins 1985)において、当時のハワイ住民は彼らの神話体系に従って、クック船長を神と見なしたと主張した。これに対して、オベイエセカラは『クック船長の神格化』(Obeyesekere [1992] 1997)を著し、ハワイ住民も近代ヨーロッパ人も神経生理学的に共通の合理性を備えており、サーリンズの議論はそれを認めない点で、相対主義であると批判した。オベイエセカラの批判を受け、サーリンズは『どのように「現地人」は考えるか』(1995)を著して、当時のハワイ住民は近代ヨーロッパ人と異なる合理性を持っていたと主張し、更に、前者に後者と変わらぬ合理性を付与するオベイエセカラこそ、ヨーロッパ的思考に毒されていると批判した。
3 その理由の一つには、合理性と相対主義に関する問題が社会科学、とりわけ人類学に関する問題というよりは、デイヴィッドソンに代表されるような、より一般的な哲学的問題に回収されてしまったことにある(Davidson 1974)。しかし、これは社会科学の研究において生じる問題、あるいは社会科学の文献を直接、扱わないという点で、社会科学の哲学としては、後退しているように思われる。これは英語圏の社会科学の哲学において、顕著な傾向だが、是正される必要がある。[...]
「社会科学の哲学とその現在」(pdf)
前述の合理性論争とサーリンズ・オベイエセカラ論争は主として、異文化の合理性を巡る問題なのだが、別の重要な問題が潜んでいると考えられる。それは社会科学はどのような意味で科学と言えるのか、あるいは、自然現象を研究する仕方で、社会や文化を研究すべきなのか、またできるのかという問題である。この問題はいわゆる「理解と説明」に関する問題であり、例えばシュライエルマッハーやディルタイなどの解釈学的伝統、あるいはシュモラーとメンガーのいわゆる「方法論争」に遡ることもできよう。いずれにしても、ここで問題となっているのは、社会科学は社会現象を研究する際に、自然科学とは異なる方法を必要とするのかどうかということである。
まだやってんのか!
この論争についてはハッキングもこんなの↓を書いてるそうです:
- Hacking, I. 1995. Aloha, aloha. London Review of Books. September 7, 6-9.
ところで関係ないはなし。上掲報告注9:
9 なお、筆者の知る限り、英語圏での哲学系の学術誌のほとんど(もちろん、査読付)は個々の大学を基に編集、出版されているという意味で、日本でいう紀要に近い(つまり、『社会科学の哲学』のように大手出版社から出版されている学術誌ばかりではないし、『社会科学の哲学』にしても編集の中心となっているのは、ヨーク大学である)。この点は、査読制度が学会誌を除いて、ほとんど定着していない日本の哲学界と極めて対照的である。
へー