「方針」に関する予備考察

「主題=対象」と「方針」と「分析」とについて、形式的には、次のような検討課題をたてることが出来るだろう:

  • 【1】これらの主題=対象は、どのような分析方針を必要としているのか。[研究方法論1]
  • 【2】著者はそこで、ルーマンの議論をどのように解したうえで採用したのか。[学説研究〜解釈論]
    • 【2-1】ルーマンの議論は どのような意味で【1】に関係するといえるのか。 [研究方法論2]
  • 【3】個々の分析は適切であるか。分析は、実際に 方針に則って行われているのか。 [研究方法論3]

ところで、

  • 【1】主題=対象は、それにふさわしいどのような分析方針を要求しているか

という問いは、

  • 【3'】主題=対象は、どのような事情にあるか

ということに関する知識を──したがってつまり、対象に関する分析を──すでに必要とする。つまり、分析主題と分析方針とは相互に規定しあう関係にある。

ということは、「さまざまな研究実践において、こうした相互規定関係がどのように展開=非対称化されているのかを調べる」という科学社会学的研究課題がありうることを意味しているが、それはさておき。

 ルーマンの著作に多少なりとも親しんだ者であれば、この相互規定関係が、単にあっさりと「断ち切られる(=ショートさせられる)べきもの」だとは考えないだろう。「そこ」にどのように 入り込み((c) ハイデガー・「そこ」に留まり続けうるかか──この相互規定関係をどのように「展開」してゆくか──ということこそを、研究方法論上の課題として捉えればよい「だけ」だから。

しかし。

「分析は方針を必要とするが、方針の選択と適用は分析に依存している」というこの循環*は、単に、「決定的な-形式的・方法論的-端緒」の不在を意味するだけではなくて、むしろだからこそ、いっそう洗練された研究方法論が必要であることも意味している。つまり、
  • われわれは「ともかくも・どこかから」始めなければならないが、研究方法論は「始めてしまえば不要になる」ようなものではなく、
    また逆に、「「方針談義」に決着がつかなければ分析を開始できない」などというようなものでもなく
    分析の間ずっと問題になり続ける
ということを意味している。そしてまた、
  • 方針そのものを分析と独立に──したがって「純粋な方法談義」として──扱うことはできない
ということをも意味している。(フッサールなら、こうした事情を指して、「方法の自己開示」などと呼ぶかもしれない。)

 ところで、こうした事情を糞真面目に受け取るなら、ルーマンのように、「理論と方法」を独立に考えることには疑問が生じるし、ルーマンが採っている実際の記述手続きが──本人はそう述べているが──ほんとうに「機能主義的方法」に則っているなどと言えるのかどうかは、さらになおさらのこと たいへん怪しいように思われてもくるだろう。
・・・ということを明示的に問題にしてみたかったので、ここで私はルーマンの用語法(理論と方法)には従わず、別の言葉(主題と方針)を選んで使ってみたのだが。

一人の研究者の研究人生にとって重大なのは、この「展開」が、「事象的」側面においてだけでなく「時間的」側面においてもなされる(しかない)、ということだろう。そして、

まぁ研究者ではない私にとってはどうでもよいことではあるのだが、
とはいえ、「循環の展開は、事象次元においてのみならず、時間的次元においてもなされる」というこのこと自体は──いかなる人の人生もそのように生きられるしかないのだから──研究者だけに特別な事情ではないはずなのだが、

「方針」や「方法」をめぐる議論においては、しばしばこのことが忘れられているように思われる。