検討論点リスト:その他

構造的カップリングと痕跡

「システム」概念が要請される理由その2。

構造的カップリングは、関係システムに歴史的痕跡を残す[...]。とすれば、生命倫理的問題事象が、医療、親密圏と法や政治が構造的カップリングしているまさにその瞬間に起きているのではない場合でも、それらの構造的カップリングのあり方が、当の問題事象の生起の仕方を規定してしまう。だから、法や政治は、種々の生命倫理的問題事象を、直接性の程度はさまざまでも内的に構成してしまう。したがって課題は、政治なり法なりが部分的にもせよ内的にどのように問題事象を構成しているかの反省と、その反省を通じた自己変容として、果たされるのである。[p.40]

分析の際限のなさ(Clam)

 ところで、以下の本稿の論述がシステム論研究の現状の中で持つ意味について誤解を与えないために、このような分析には際限がないことにも注意を向けておくほうが良いだろう。

  • 〔関与システムとして特定されるシステムの種類と数を増やせる〕 まず、個々の出来事は多数のシステムの作動の合成効果であるから、分析対象とするシステムの数を増やせば増やすほど、際限なく分析を具体的にしていくことができる。
  • 〔記述の深度を深め歴史的観察の厚みを増やせる〕 さらに、波紋が生じることとしてのシステムの作動は、こう言うことで表象されるほどに単純な事柄ではない。
    • 社会システムの場合、システムが作動しているとは、一つのコミュニケーションがつぎつぎと波紋を引き起こしていく過程の云いに他ならない。ところで、コミュニケーションとは、世界に対するパースペクティヴを必然的に異にしている意識システムの間の事柄であるから、むしろ多くの条件に支えられ媒介されて始めて成立しうるものなのであり、そこには多くのパラドクスがはらまれ、場合によってはそれが隠蔽されつつ、ようやく進行している事態なのである。そして、こうしたパラドクスは、一挙に普遍的な解決が与えられうるとは一概に想定しがたい。だから、あるパラドクスの処理形式は、派生的に別のパラドクスを生んでしまうかもしれない。派生的パラドクスの処理は、それはそれとして別のパラドクスを生んでしまうかもしれない。また、その処理形式は、歴史的にそのつどやりくりされてきており、現在もやりくりされ、そのやりくりは現在も変動圧力にさらされているかもしれない。だから、社会システムをコミュニケーション過程として分析することは、少なくとも潜在的には際限のない課題である。
    • つまり一方では、パラドクス処理の派生連関の観察という形で、システムの記述の深度を深めていくことが要求される。
    • 他方では、現在のシステムの状況を歴史的記述の厚みの中におくことが要求される。

[..]

  • さらに、この具体化の過程は、積極的な意味で際限がない。前述のリアリティー観からすでに明らかであろうが、システム論的分析の結果としてわれわれがたどり着くのは、理論的探求の終着点に達したことのシグナルとなる何らかの同一性――古典的な物理像における原子などのような――ではなく、作動している微細な差異であり、これはわれわれの更なる探求を促すことになる15。[p.7]
15 システム論的分析のこういう意味での積極的な際限のなさについては、Jean Clam, Was heisst, sich an Differenz statt an Identitaet orientieren: Zur De-ontologisierung in Philosophie und Wissenschaft, 2002, UVK が明確に気づいている。

「だから」って?

事後性(Japp):

〔リスク社会:2006〕 [p.87-88]、[p.91-92]

最後に制度選択に関して事後の観察が重要であることに注意が必要である。制度選択に関して、時代や社会、リスクの性質の観察が重要であることは上述したとおりだが、ルーマン派の見地に立つ限り、その観察が正しかったかどうかは事後的にしかわからない。それはたんに人間の認知の限界の問題ではない。ルーマン派の見方では、同時性の条件において触れたことから明らかなように、生じることはつねに同時に生じ、あるシステムとあるシステムが関係する場合、両システムが同時に変化してしまう。だから、一方のシステムが他方のシステムを一方的に制御するという関係には原理的に立ちえないのである。したがって、環境との関係は事後的観察を精密に繰り返すことによってしか正しく調整することはできないのである。もしこのような考え方では余りに希望がないと思われるのであれば、そうであればこそやはり事後の観察が重要であると強調しておきたい。ある試みの結果として事前には誰も目的とはしていなかったコミュニケーションのループが生じ、そのループのあり方にわれわれは希望を発見することが出来るかもしれない。これがシステム信頼ということの一つの側面である112。[...] [p.87-88]

 [...] ルーマン派の見るところ、リスクをめぐるコミュニケーションの枠組みやその内容と、その環 境であるところの自然界や人間は、同時に変化するので、何が有効である(あ った)かということは、事後的にしか決定できないのである。  それは、事前の努力を放棄するものではないが試行錯誤によって学ぶ姿勢を自覚的に取ることが重要だということを意味する。そのためには、制度枠組みの設定やリスク対策の決定に際しては、はっきりとした狙いをもって決定し、そのことによって失敗するときには明確に失敗することが重要である。そしてまた、誰もが想定していなかったが有効なものと判明するコミュニケーション秩序が創発する可能性もある。これもシステム信頼の一つの側面である。  したがって、リスク現象に関してはとりわけ、事後の観察に自らを開き続ける姿勢がもとめられるのである。このことは、ルーマン派から見れば理論の敗北ではなく、進化論的アプローチの当然の帰結である。つまり、確実かつ普遍的な決定の基盤は次第になくなってきているので、正解を導くための確実な事前の基準、方法を確立することもさることながら、正負の成果をきちんと観察できる視点の構築に理論的活動の重点が移動してきているとルーマン派は見るのである。[p.92-93]
〔ざわめき:2007〕 [p.120]
V おわりに
 [...] 本稿で例示的に取り上げた各種の法化ー非法化の試みの成杏に関しては、精密かつ繊細な事後的観察に委ねたところが多かった。それはもちろん、本稿で準備した程度の抽象的な概念的道具立てでは未だ不十分であることを示しており、より具体的な概念形成が今後の課題である。しかし、事後的再帰的観察を重視することはルーマン派本来の志向でもある(Japp 2000: S. 87ff) 。この関連でたとえば、
  • 当事者たちのプラグマティックかつアドホックな試みが予期せぬコミュニケーション・パターンを生み出し
    それが問題解決に有効な場合にはそのようなパターンを(ソフトで間接的なものも含め) 「法化」して安定化させ伝播させる
という意味での「法化」も、今まで以上に注目に値する。もちろんそのような方策の有効性は、
  • 社会のコミュニケーションの適切な透明度と速度に依存することになるが、同時に、
  • 事後的認知が可能になるような理論的枠組みの彫琢が要請される。
ルーマン派システム論は法理論の重点を事後的かつ再帰的な観察へ移動させる。そして、そのことが社会に対する単なるネガティヴ・アプローチにとどまることなく、かつ、悪しき設計主義に陥ることのない法理論の第三の道を可能にする一手段たりうる。[p.120-121]

なんやようわからん。