前田ほか編『ワードマップ エスノメソドロジー』

『ワードマップ』に ご質問をいただいたので、回答のための準備をば。
エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

Q1 「説明可能性:出来事が 観察可能で報告可能である(見て言える)こと」について

「説明可能性」の 本文における初出は p. 12。

1-2 説明可能性(アカウンタビリティ

 エスノメソドロジーでは、さまざまな出来事に対して、そこで何が起こっているかわかる ということが研究の出発点になります。つまり、出来事を秩序のあるものとして見て言えることを「説明可能な(アカウンタブル)」といいます。これはガーフィンケルの用語で、「観察可能で報告可能な」と言い換えることもあります1
 たとえば、私たちは、道を歩いている人が立ち止まって ちょっと目線をおくるだけで、「道路を横断しようとしている」ことがわかることがあります。このように ある出来事見て言えることが、「説明可能(アカウンタブル)」ということです(…)。
 ここで歩行者が「道路を横断しようとしている」ことは、通りかかったドライバーにも他の歩行者にも、「見て言えて」利用できます。つまり、その出来事に関わる人たちにとって「説明可能」になります。このように説明可能な性質(説明可能性=アカウンタビリティ)とは、個人的な実感や経験だけではなく、複数の人が共同でわかって利用できるものです2
(p. 12-13)

Q2

こうして、『当事者』から『会話者』や『人』へと中心概念を移行させ、しかも会話の方法について述べ始めることによって、ガーフィンケルは会話への焦点を、

  • 会話をしている当事者のみにしか接近できない解釈

の領域から、

  • その会話へと参加していくことができる者、
  • ともかくも「会話」として聞くことができる者なら理解できるはずのものとしての会話の方法

へと、曖昧ながらも変更させていったのです。
(p.88)

強調の置きどころは上の赤字のところ。
研究の課題を

  • その会話の参加者各人は、それらの発話あれこれを どのように解釈していたか。

というところから、

  • (機会があれば)その会話に参加できるためには どんなことが出来るひとでなければならないか。
    • そのひとたちは、どういう事情でその会話に参加できているのか。

に変更した、ということ。

Q3

4-1 実践のなかの合理性

(3) […] EMの知見とモデルの相違に関しては、262頁以下のQ&Aを参照。なお、ガーフィンケルによるこうした問いの転換はモデル構築を否定するわけではない。モデルを使って自らの営為を定式化し、可視化するという実践は、社会学者に限ることなくさまざまな活動のなかでなされている。EM研究においては〈モデル構築〉たるものを実践として、社会現象として解明することが目指される。
(p. 78)

たしかにあまりわかりよい文章ではありませんな。
Q&A とあわせて、おおむねこんなことを言いたいわけです:

  • ふつう、多くの科学では、「モデル構築は、研究活動の核であり・目標である」って考えるよね。でもエスノメソドロジストはそんなふうにはぜんぜん考えないよ。[と、本文には書いてあるわけだけど、]
  • でも、そう言ったからといって。
    • 一方では。「EM研究の中にモデルっぽく見えるものは全く登場しない」なんてことは言わないよ。そんなふうに見えるものがあったとしても、それは 理論的構築物をあたえようとする活動の中で登場してきたものではないよ、と言っているだけ。(←Q&A)
    • 他方では。「モデルをつくる」「モデルを使う」というのは──研究者だけがやることではなくて──ふつうに みんなが しばしば やってることだよね。そういうのが一般に「よくないことだ」なんて もちろん言わないよ。むしろ、みんながやっている そういうありふれた活動は、ぜひEM研究の対象にすべきだよね。(←注3)