本日の提題

【問い1】
  • 市民社会は存在するか(否か)」
  • 「資本主義社会は存在するか(否か)」

のような問いを、ふつう人は立てない。というか、そもそもふつう「市民社会」や「資本主義社会」に対して「存在する/しない」などという述語を使わない。

あるとすれば、
  • 「「市民社会」と西欧で呼ばれているものは、日本にもあると言えるのだろうか」
  • 「日本の社会は、ほんとうに「市民社会」と言えるのだろうか」
みたいなやつだろう。(この場合はつまり、「比較」をする文脈だから「ある/とか」ないといった言葉を使うことができているわけだ。)
そしてこんなヘンな──というか、どうでもよい──問いは、政治学者くらいしか立てないんである。(そんな本めったに読まないから知らんけどな)
もちろん、使ったってよいわけであるが。(たとえばフーコーは「市民社会」は──「リベラリスム」の相関項としてしか──「存在しない」という前提で議論を進めている。)

ところがルーマンの謂う「ゲゼルシャフト」については──それは、おおまかに言えば「市民社会」や「資本主義社会」の代替的な表現であるのに──

と問われる。これはなぜだろうか。

【問い2】

1に対する最初の答えとしては、

というものが思いつく。ところで他方、

  • 「我々の社会は、相互に関係しあった 様々なセクターに分かれている」

というのは、むしろ常識的な主張に属するだろう。(たとえば、マルクスの「社会構成体(Gesellschaftsformation)」といった概念のことを思い出してみてほしい。)

そこで判断がわかれるのは、たとえば「どう分かれているか」といったことについてだろう。つまり、
  • 「法と政治は別々のセクターなのだろうか。それとも同じセクターなのだろうか。」
といったように。
そして──ルーマンがそうするように──「法と政治は別々のセクターだ」とみなすのは、多数派ではないかもしれない。

というわけで【Q1】はまだ残り続ける。ここでの最初の答えとしては、

  • 【A2】「それは、ルーマンが、「ゲゼルシャフトは──上記各セクターをサブシステムとする──システムである」と言うからだ」

というものが思いつく。


さて。
では我々は、特定の術語について「存在する/しない」といった述語づけを行ったり行わなかったりすることで、いったい何をしているのだろうか。
(以下略)

文字を読むのが不得意な人のために念のため書いておくだけだが、私はここで──当然ながら──「市民社会は存在する(or しない)」とか「資本主義社会は存在する(or しない)」といった主張をしているのではない。
また「ゲゼルシャフトはシステムである」というルーマンの主張を擁護しようとしているわけでもない。(このテーゼは私は賛成していないし、またルーマニ屋がいつかこのテーゼを口に出さなくなる日がくればよいな、とも思っている。)