【問い1】
- 「市民社会は存在するか(否か)」
- 「資本主義社会は存在するか(否か)」
のような問いを、ふつう人は立てない。というか、そもそもふつう「市民社会」や「資本主義社会」に対して「存在する/しない」などという述語を使わない。
あるとすれば、
みたいなやつだろう。(この場合はつまり、「比較」をする文脈だから「ある/とか」ないといった言葉を使うことができているわけだ。)
そしてこんなヘンな──というか、どうでもよい──問いは、政治学者くらいしか立てないんである。(そんな本めったに読まないから知らんけどな)
そしてこんなヘンな──というか、どうでもよい──問いは、政治学者くらいしか立てないんである。(そんな本めったに読まないから知らんけどな)
ところがルーマンの謂う「ゲゼルシャフト」については──それは、おおまかに言えば「市民社会」や「資本主義社会」の代替的な表現であるのに──
- 【Q1】「ゲゼルシャフトなどというものは存在するのだろうか」
と問われる。これはなぜだろうか。
【問い2】
1に対する最初の答えとしては、
というものが思いつく。ところで他方、
- 「我々の社会は、相互に関係しあった 様々なセクターに分かれている」
というのは、むしろ常識的な主張に属するだろう。(たとえば、マルクスの「社会構成体(Gesellschaftsformation)」といった概念のことを思い出してみてほしい。)
そこで判断がわかれるのは、たとえば「どう分かれているか」といったことについてだろう。つまり、
- 「法と政治は別々のセクターなのだろうか。それとも同じセクターなのだろうか。」
そして──ルーマンがそうするように──「法と政治は別々のセクターだ」とみなすのは、多数派ではないかもしれない。
というわけで【Q1】はまだ残り続ける。ここでの最初の答えとしては、
というものが思いつく。
さて。
では我々は、特定の術語について「存在する/しない」といった述語づけを行ったり行わなかったりすることで、いったい何をしているのだろうか。
(以下略)