涜書:J・A・マロー(1969→1972)『クルト・レヴィン』

クルト・レヴィン―その生涯と業績 (1972年)

クルト・レヴィン―その生涯と業績 (1972年)

  • 緒言
  • 謝辞
第1部 ドイツ時代
  • 1. 発端
  • 2. 初期の考想
  • 3. 教師としてのレヴィン
  • 4. 緊張体系と場理論
  • 5. 実験的研究
  • 6. 名声あがる
  • 7. ベルリン研究室との決別
第2部 アメリカ時代
  • 8. 新しい生活の発端
  • 9. 新しい力が動き始める
  • 10. アイオワ時代の初期(社会理論と社会問題)
  • 11. トポロジーと心理学的力の表示法
  • 12. 実験的研究
  • 13. ひろがるサークル
  • 14. 産業におけるアクション・リサーチ
  • 15. 実際的活動の中で理論を検証する
  • 16. 援助を求めて
  • 17. 集団生活の力学
  • 18. 地域社会問題のアクション・リサーチ
  • 19. MITにおける集団力学の出発
  • 20. 社会問題実践活動計画の開始
  • 21. おもなアクション・リサーチ計画
  • 22. 研究テーマの統一とレヴィン最後の日
  • 終曲 不朽の影響力
  • 補録
    • A クルト・レヴィンの業績目録
    • B ベルリン実験
    • C 1935年のトポロジー・グループ
    • D アイオア研究
    • E 地域社会問題委員会の刊行物
    • F 集団力学研究センターの出版物(1945-50)
  • レヴィン・クラスからの寄せ書き

第11章「トポロジーと心理学的力の表示法」

196。ミードとの出会い。

 マーガレット・ミードもまた、あるクリスマスの会合でレヴィンを知るようになった。──それは1935年のブリン・モウで行われた会合[第三回トポロジー会議]である。「その時にはもう後に行われる会議の形が予見されていました。なぜかというとその時の発言者たちはみんな自分のあたまに浮かんがインスピレーションを述べたわけですが、それはクルト自身の複雑な図式や公式を使っては居ないもののそれに言及していましたから」とミードは言っている。
 1940年は記憶すべき年である。──この年、このグループはもう一度スミス大学に集まり──レヴィン自身が大晦日の集会の冒頭に「現代の生活空間の到来」と題する発表をして集会の幕を開いた。その夜の日程は「新年のお祝い」という標題になっており、マーガレット・ミードがフォーク・ダンスの催しをリードし、深夜に及んだ。しかし翌朝の九時半になると、もうグループの全員が集まって、ダン・アードラーの「抑圧の性質について」という話や、そのあとのマーガレット・ミードの発表「家族組織と超自我」を熱心に聞いたのである。そのとき、ミード女史の発表について討論が行われたが、その討論を精神病理学的な資料を用いてリードしたのがブラウンである。(ブラウンは1929年のサイコロジカル・レビュー誌にレヴィンについての論文を寄せて、アメリカの心理学者たちに彼のことを注目させた人である。)
 フリッツ・ハイダーはベルリンで、1921年から1924年までのたいていの会合には妻君のグレースといっしょに出席してレヴィンをよく知っていた。ハイダーはスミス大学で開かれた1945年の会合には、彼の最初の平衡理論、ないしは一貫性理論を提出し、また1948年の会合では三度目の発表をして社会心理学の理論に重要な寄与をした。

第12章「実験的研究」

224-。食習慣実験について。

 レヴィンのグループによって行われた第三の実験──いわゆる「食習慣の研究」──はアメリカが第二次世界大戦に参戦した結果おこなわれるようになったものであり、またレヴィンと人類学者マーガレット・ミードとのあいだに発展した友好関係の結果でもあった。
 合衆国が第二次世界大戦にまきこまれたとき、マーガレット・ミードは合衆国農務省の外局の長であった M.L. ウィルソンから、国立科学研究会議の食習慣委員会の長として働いてくれないかという申し出を受けた。ウィルソンは連邦栄養計画の連絡調整役であって、長い間社会科学を利用して社会を変化させることについて考慮をめぐらしてきた人だった。ところが戦時の食品統制によって生じた緊張事態は彼の空想を現実化する可能性を産んだので彼は人類学者・心理学者・社会学者に委嘱して食習慣の委員会で彼に協力してもらおうとしたのである。マーガレット・ミードに委員会の長を勤めてもらいたいという招請は彼の着想を実現させるための手段の一部をなすもので──それがミードを通じてレヴィンのところまで通じたわけである。
 ミード女史の話によると、彼女がこの委嘱を受諾した理由は もし社会科学者が来るべき戦争努力に協力すべきだとすれば、ワシントンでの実地の小研究に参加するのは当然だと考えたからであり、またそれを承知のうえで受諾したのである。奇妙なことに、ワシントンでの栄養研究の企画が誰の着想でアイオワ大学のクルトのところの大学院生との共同研究になったのか彼女は憶えていない。
 ウィルソンはレヴィンを熱心に支持した。ふたりは、食習慣研究委員会が当面した問題に関係のある一連の研究についてその研究計画を立て、レヴィンがその実行にあたった。
 ミードは言っている。「私がクルトと一番一生懸命に仕事をしたのは、彼がアイオワ網地学にいた最後の二、三年間でした。私達の委員会の任務はどうしたら国民の食習慣や食物の嗜好が変えられるか、またどうしたら彼らが新しい栄養科学の知見を取り入れるようになるかを研究し、政府機関に助言することであり、戦時下の急迫した状況のもとで、食物は不足し、やむをえず食物の種類が変わらなければならない時に どうやってアメリカ国民の健康を維持するかを研究史政府機関に助言することでした。人類学者として、私たちが最初になすべき課題は、いったいアメリカ人の食習慣はどうなっているのか、またアメリカ人のいろいろな集団──つまり諸外国から来た人たちやこの国のさまざまな地方からきた人たちの集団──はどういう文化に属しており、どんな食物を選択し、何を料理し、何を食べ、何を賞味して充分な、あるいは一応の栄養を保っているかをつきとめることだというのが私達の結論でした。しかし、心理学者としてのクルトはまず実験について考えました。彼と私とのあいだにはいつもこうしたコントラストがありました。」

ミードに関するの回顧は あと3.5頁分つづいている。