バトラー『アセンブリ』第4章「身体の可傷性、連帯の政治」

ISBN:4791770455 https://contractio.hateblo.jp/entry/20180423/p1

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 身体は常に、自らが生き延び、繁栄するために永続的な社会的諸関係と諸制度に依存する、という一般的主張を、それ以外にどのように理解すればよいのだろうか。私たちがそのように主張する場合、まさしく身体とは何かを述べていないだろうか。あるいは私たちは、身体の一般的存在論を提示していないだろうか。また私たちは、可傷性に全般的な本源性を与えていないだろうか。逆である。まさしく、身体はインフラストラクチャー的支持体(あるいはその不在)と、社会的で技術的な関係のネットワークあるいは網目との関係において形成され、維持されるがゆえに、私たちは身体をその構成的諸関係から分離することはできないのである──そして、これらの関係は常に経済的かつ歴史的に固有のものである。

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 可傷性は私たちを、自らの範囲を越えているが自らの一部であるようなものへと関与させ、仮に私たちの身体化と呼びうるものの一つの中心的次元を構成するのである。

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 恐らくここで、可傷性について、その政治的重要性を理想化することもその価値を下げることもないような幾つかの論点を明確にすることができる。第一に、可傷性はもっぱら侵害可能性のみと結び付けて考えることはできない。起きることに対するすべての応答性は、可傷性の機能と効果である──すなわち、歴史に開かれており、印象を登録し、あるいは人の理解に強く印象付けられた何かを持つことの機能と効果なのである。可傷性とは開かれの機能、すなわち、完全には知られていない、あるいは予測できない世界に対して開かれているという機能であろう。(ドゥルーズスピノザ読解から取られた言葉を用いるなら)身体がなしうることの一部は、他者の、あるいは一群の他者の身体に開かれていることであり、それゆえ身体は自己に閉じられた実体ではない。身体は常に、ある意味で自分自身の外部にあり、自らの環境を探索し、あるいは環境の中を進み、感覚を通じて拡張され、時には脱占有される。もし私たちが他者において失われうるとすれば、あるいはもし私たちの触知、運動、触覚、視覚、嗅覚、あるいは聴覚の能力が私たちを越えて振る舞うとすれば、それは、身体が自分自身の場に留まらないからであり、この種の脱占有が身体感覚をより一般的に特徴付けるからである。

「第二に」どこー