周藤論文の立ち読みページをリリース:
- 周藤真也、「精神障害と「人間」からの解放─精神分裂病1の呼称変更にみる─」
- in 『年報社会科学基礎論研究』 第3号、2004/05、社会科学基礎論研究会
周藤論文の立ち読みページをリリース:
フーコーをすごい(ゆっくりとした)勢いで再読するスレ。
- III 言表と集蔵体
- 1 言表を定義づける
- 2 言表の機能
- 3 言表の記述
- 4 希薄性、外在性、累合
- 5 歴史的<先験性>と集蔵体
- IV 考古学的記述
- 1 考古学と諸観念の歴史
- 2 原のものと規則的なもの
- 3 さまざまな矛盾
- 4 比較に基づく事実
- 5 変化と変換
- 6 科学と知
「言表系列の<内側の主体/外側の主体>」という区別が置かれ*、ルーマンが「構造的カップリング」を置く場所には、
「ひとつの<おなじ対象>に関連するが相互に区別**される複数の言説領域」が置かれている。
「フーコーにおける<語る主体>の回復は注目されるところだ」(p.115)などと書き付けている。もうね ■■かと。「語る主体は言説の──(特殊)システム論に謂うところの──環境にゐる」って謂ってるだけでしょうに。
だが、それと同時に残念な事にも気づく。
ルーマンが劣悪な著述家である事については衆目の一致するところであり、いまさら語るべき言葉もないが*1、私はといえば、フーコーについていえば「ルーマンよりはまし」だと思っていた。なんとなく。 だけどどうやら、あまりそうともいえないようだ。一方のルーマンは「システムは〜〜であり、コミュニケーションは〜〜である」と(肯定的かつシンプルに)断定口調でがんがん突き進んでいく(のが読んでいてムカつく)わけだが、他方のフーコーはといえば、「言説は〜〜でなく、〜〜〜でなく、また〜〜でなく、〜〜であり、言表は〜〜でなく、〜〜でなく、〜〜である。私は〜〜をやろうとしたわけではなかった。」と否定(=卓越化と言い訳)を大量に混ぜこみながら進んでいくというだけで、その否定が規定に役立っているかというと必ずしもそうは見えないことのほうが多く、それってつまりは話のはこびが冗長になってるだけじゃんよ、ということなのだった。
さらにいえば「〜〜ではなく、〜〜ではなく」と語るフーコーは、一方では、同時代の「しがらみ」から己を切り離そうともがいており、他方では、自らが語ろうとしていることを表現する適切な言葉を見つけられずにもがいているわけだが、その両方の理由から、しばしば言わなくてもいい過剰な事を言ってしまい、また言うべき事を不適切な術語で表現してしまっていることにも気づく。
たとえば、「作者の死」とか「匿名性の空間」などと表現する必要のないところで──おそらくは同時代の諸意匠に対抗するつもりで──、そう述べてしまうことによって、抱え込む必要のない余計な負担を抱え込んでしまう。
といったことのすべてはさておき。
いくつかの例外を除いて、トリヴィアルな相同性が著作全体を通じて指摘できる以上、次の課題は、その例外の位置を見定める事、になる。そして、例外のうちのもっとも重要なものは、IIIの4と5(つまり「実定性」概念と「アルシーヴ」概念)。
google:アプリオリ分析。
聞いたことないねぇ。ていうか分析がアプリオリだったらまずいんじゃね?
大学生協にはならんでるのかなぁ。
isbn:4588008005
すごい(ゆっくりとした)勢いでフーコーを再読するスレ。asin:4309706118
- III 言表と集蔵体
- 4 希薄性、外在性、累合
- 5 歴史的<先験性>と集蔵体
- IV 考古学的記述
- 1 考古学と諸観念の歴史
- 2 原のものと規則的なもの
- 3 さまざまな矛盾
- 4 比較に基づく事実
- 5 変化と変換
- 6 科学と知
昼食。
IV の、「考古学的分析」を「象徴の分析」と「因果分析」に対置して打ち出そうとしているあたりは、この本の中で もっともこむつかしげな箇所のひとつですな。
フーコーをすごい勢いで再読するスレ。asin:4309706118
夕食。
- IV 考古学的記述
- 1 考古学と諸観念の歴史
- 2 原のものと規則的なもの
- 3 さまざまな矛盾
- 4 比較に基づく事実
- 5 変化と変換
- 6 科学と知
- V 結論
- 読者に
- I 序論
- II 言説の規則性
- 1 言説の統一性
- 2 言説の形成と編成
- 3 対象の形成と編成
- 4 言表の諸態様の形成と編成
- 5 概念の形成と編成
- 6 戦術の形成と編成
- 7 注意事項と帰結
IVの6にでてくる「(科学的)知識」と「知」は、英訳ではどう訳し分けられているのでしょう。>識者