ということが確認された何度目かの読了。昼食。
おうちにある本を読むよシリーズ。
やれやれ。いろいろ確認しないといけないよ。
■読後の「印象」に基づくとりあえずのメモをお仕事のかたわらに。(暫定見解につきツッコミ無用)
この本には「社会学的啓蒙」という語は(たぶん)一度も出てこないけど、でもやはりそのプロジェクトに指向したテクストなのであった。初期のころの話と──少なくとも表面上──異なるのは、議論が「反省理論」という土俵のうえで行なわれていること。
この点が「違う」と言えるのかどうかも、それ自体ちゃんと検討してみないといけないけど。(とりあえず初期のころには、「反省理論」という語を、限定された明確な仕方で術語的に用いては いなかっただろう。)
さて。この本では少なくとも3つのことが行なわれている: [1]「政治的コミュニケーションの統一性(つまりシステム)」の記述、[2]「政治システムにおける反省(的自己記述)」の記述、そして [3]「政治理論」の提案。
ここでは、「政治学理論(=学としての政治理論)」と「学にサポートされた政治理論」が区別されたうえで、両方に足を掛けた政治理論なるものは可能か、という課題が設定されているのである。
一方で (「研究」として行なわれる)学でありながら、他方で 政治的コミュニケーションの中で
使われうるような、そのような「政治理論」。スローガンは「理論の実践」である*。
* こちらの表現は初期のテクストにも登場する。
ルーマンは著作のなかで何度か「しかしそんなことできるのか?」と自問しながら、「わからん」と自答(?)し続ける。そこで読者としては「いったい君は、いつになったらその【本題】を開始するの?」と いぶかしむことになるが、なんと著作はそのまま終わってしまうのだった ( ゜д゜)ポカーン
だけでなく、「この主張は内容と形式が矛盾している」とか「実験だ!」とか最後の最後まで逝ってるのであった。ちなみに最終章のタイトルは「要約」だが、これは──本書全体の要約であると同時に──「実験」の要約、ということでもあるつもりらしい。
「学でありながら、政治的コミュニケーションの中で使うことができる」政治理論は、少なくとも、政治的コミュニケーションが受け入れられる内容を持っていなければならない。つまり、政治的コミュニケーションのあり方を知っており、かつそれを尊重するものでなければならない。他方でそれは、政治的コミュニケーションの可能性を吟味でき[=批判]・拡張できるもの──オプションを与えるもの[=啓蒙]──でなければならない。そしてこのどちらの課題をも「社会学的に」果たそうとするから、つまり「政治システムの記述」を経由して行なおうとするから、それは 社会学的 啓蒙 と呼ばれる。
別の言い方をすると、そうでないなら、例えば「規範理論的啓蒙」とか「
倫理学的啓蒙」とか(以下略)と呼べばよいだろう。
それがテクストとして提出されている以上、「学であり、かつ、政治的コミュニケーションの中で使うことができる」理論なるものの姿を──とりあえず抽象的にではあれ──想像するのは難しくない*。「政治的コミュニケーションの社会学的記述・吟味」は──政治システムの他の記述-と共に/に並んで-──政治的コミュニケーションとして流通しうるから。そして、「政治的コミュニケーションとして行なわれる政治システムの記述」は、「政治システムの自己記述(=反省)」の形式を持つ。だから、
ここで上述の「新しい論点(=反省理論)」が、「啓蒙」の議論に加わることになるのだが
ルーマンの実験は、「政治システムについての社会学的理論を、政治システムの反省理論という形式に適合するような仕方で 提出する」というものになる。
政治的コミュニケーションにおける一つの 指し手move となる
社会学的理論。──これが、「理論-の-実践」の──少なくともひとつの──意味だろう。
* と、あっさり書いてしまったが、こう片付けては
ルーマンが何を躊躇っているのかがわからなくなってしまう。というか奴はいったい何を躊躇っているのだろうかwww。
これは魅力的な提案だろうか?
私にはよくわからない。
が、さしあたり「人を安心させる」効果は持つだろう穏当な提案のようには思える。さてさて。