ルーマン『福祉国家における政治理論』

朝食。
おうちにある本を読むよシリーズ。

福祉国家における政治理論

福祉国家における政治理論

■中間部のあらすじ

  • 第4章で 福祉国家を「包摂」概念でもって特徴づけ、
  • 第5章で 政治的コミュニケーションを──包摂が自己言及的概念であることに訴えて──自己言及システムとして定式化し、
  • そこから 第8章で 外部化の主要な諸戦略 を扱うことになるのだが、
    「政治の反省理論」の目標は、外部化へのオルタナティヴをあたえることだよ
  • その前提として/その前に、第6-7章で システムの内部分化 を扱う。
  • 第9章は 内的な(不)安定性 の話。
  • 第10-12章は 外部参照(=政治システムからの-他のシステムへの参照)の違い の話。
「政治システムの機能」という言葉は、ここ──本書の真ん中――で 初めて登場する。


ブラックボックス」がどうの、という話が出て来るあたり―の似非「認識論的」な議論――がほとんど理解不可能。要再読。

タルド『模倣の法則』

こんどはホントですか。というか実際にモノを見るまでは信じません。

模倣の法則

模倣の法則

坂下「なぜ若きハイデガーは(‥)『ナトルプ報告』で立てたのか」

ななななんと。23日の研究会の「原稿」 がアップされておる。ハイデガー・フォーラム恐るべし。
http://www.shujitsu.ac.jp/shigaku/hf/forum.htm


ありがたく拝読。

  • 坂下浩司 (南山大学)、「なぜ若きハイデガーは『動物運動論』を「広範な基盤」として『魂について』と『ニコマコス倫理学』を解釈する計画を『ナトルプ報告』で立てたのか」

お買いもの思案:『テクノソサエティの現在』

テクノソサイエティ....意味分からん...。しかも「現在」て...

テクノソサエティの現在 (1) 遺伝子技術の社会学

テクノソサエティの現在 (1) 遺伝子技術の社会学

図書館にリクエストの方向で。

お買いもの:Garrett『ウェブ戦略としての「ユーザーエクスペリエンス」』

お仕事。


非お仕事。

平成男子図鑑 (NB online books)

平成男子図鑑 (NB online books)

ルーマンはやはり(ずっと)ルーマンだった

ということが確認された何度目かの読了。昼食。
おうちにある本を読むよシリーズ。

福祉国家における政治理論

福祉国家における政治理論

やれやれ。いろいろ確認しないといけないよ。


■読後の「印象」に基づくとりあえずのメモをお仕事のかたわらに。(暫定見解につきツッコミ無用)
 この本には「社会学的啓蒙」という語は(たぶん)一度も出てこないけど、でもやはりそのプロジェクトに指向したテクストなのであった。初期のころの話と──少なくとも表面上──異なるのは、議論が「反省理論」という土俵のうえで行なわれていること。

この点が「違う」と言えるのかどうかも、それ自体ちゃんと検討してみないといけないけど。(とりあえず初期のころには、「反省理論」というを、限定された明確な仕方で術語的に用いては いなかっただろう。)


さて。この本では少なくとも3つのことが行なわれている: [1]「政治的コミュニケーションの統一性(つまりシステム)」の記述、[2]「政治システムにおける反省(的自己記述)」の記述、そして [3]「政治理論」の提案。
ここでは、「政治学理論(=学としての政治理論)」と「学にサポートされた政治理論」が区別されたうえで、両方に足を掛けた政治理論なるものは可能か、という課題が設定されているのである。

一方で (「研究」として行なわれる)学でありながら、他方で 政治的コミュニケーションの中で使われうるような、そのような「政治理論」。スローガンは「理論の実践」である*。
* こちらの表現は初期のテクストにも登場する。


ルーマンは著作のなかで何度か「しかしそんなことできるのか?」と自問しながら、「わからん」と自答(?)し続ける。そこで読者としては「いったい君は、いつになったらその【本題】を開始するの?」と いぶかしむことになるが、なんと著作はそのまま終わってしまうのだった ( ゜д゜)ポカーン

だけでなく、「この主張は内容と形式が矛盾している」とか「実験だ!」とか最後の最後まで逝ってるのであった。ちなみに最終章のタイトルは「要約」だが、これは──本書全体の要約であると同時に──「実験」の要約、ということでもあるつもりらしい。


 「学でありながら、政治的コミュニケーションの中で使うことができる」政治理論は、少なくとも、政治的コミュニケーションが受け入れられる内容を持っていなければならない。つまり、政治的コミュニケーションのあり方を知っており、かつそれを尊重するものでなければならない。他方でそれは、政治的コミュニケーションの可能性を吟味でき[=批判]・拡張できるもの──オプションを与えるもの[=啓蒙]──でなければならない。そしてこのどちらの課題をも「社会学的に」果たそうとするから、つまり「政治システムの記述」を経由して行なおうとするから、それは 社会学 啓蒙 と呼ばれる。

別の言い方をすると、そうでないなら、例えば「規範理論的啓蒙」とか「倫理学的啓蒙」とか(以下略)と呼べばよいだろう。

 それがテクストとして提出されている以上、「学であり、かつ、政治的コミュニケーションの中で使うことができる」理論なるものの姿を──とりあえず抽象的にではあれ──想像するのは難しくない*。「政治的コミュニケーションの社会学的記述・吟味」は──政治システムの他の記述-と共に/に並んで-──政治的コミュニケーションとして流通しうるから。そして、「政治的コミュニケーションとして行なわれる政治システムの記述」は、「政治システムの自己記述(=反省)」の形式を持つ。だから、

ここで上述の「新しい論点(=反省理論)」が、「啓蒙」の議論に加わることになるのだが

ルーマンの実験は、「政治システムについての社会学的理論を、政治システムの反省理論という形式に適合するような仕方で 提出する」というものになる。

政治的コミュニケーションにおける一つの 指し手move となる社会学的理論。──これが、「理論-の-実践」の──少なくともひとつの──意味だろう。
* と、あっさり書いてしまったが、こう片付けてはルーマンが何を躊躇っているのかがわからなくなってしまう。というか奴はいったい何を躊躇っているのだろうかwww。


これは魅力的な提案だろうか?


私にはよくわからない。
が、さしあたり「人を安心させる」効果は持つだろう穏当な提案のようには思える。さてさて。

小野『不況のメカニズム』

夕食。
10ページ単位くらいでみると論旨明快なのだが、本全体ではものすごく繰り返しが多い。異様に多い。一つの論文に3回同じことを書く人を私は知っているが、それどころではない。

それ以前の経済学では脇役だった媒体(つまり貨幣)を それとして取り上げ*、「流動性選好」というものを考えた点でケインズはえらかった。だけど彼は、それを──「投資」に結び付けて考察しはしたけど(→投資に関する需要不況の理論)──「消費」に結び付けては考えなかった。後者の路線を追及すると、ケインズとはまた別の議論(→消費に関する需要不況の理論)が導かれるよ。‥…という話。

* おぉ。レッキとした20世紀な議論だ。
ちなみにルーマンも──もちろん──この路線をちゃんと(?)踏襲しているよ。『社会の経済』は──労働でも生産でもなく──貨幣に焦点をあわせた経済社会学の試みなのであります。


恥ずかしながら「新古典派ケインジアンは再分配の方針について対立しているわけじゃない(需要不足なるものは存在するか、どっちの不況対策案が効率的かという点で対立している)」という指摘が勉強になってしまった。と書いてみたがほんというと別に恥ずかしくない。

だって俺デザイナーだし!