グールドナー『産業における官僚制──組織過程と緊張の研究』

産業における官僚制──組織過程と緊張の研究
Patterns of industrial bureaucracy

  • 作者: ゴールドナー(A.W. Gouldner)/岡本秀昭&塩原勉訳
  • 出版社/メーカー: Routledge & Kegan Paul/ダイヤモンド社
  • 発売日: 1955→1963
  • メディア: 単行本

Patterns of Industrial Bureaucracy

Patterns of Industrial Bureaucracy

序論「官僚制研究の一試論」──要約

 この調査の目標は、官僚制化の度合に差異が生じるに至る社会過程をいくつか明確にし、決定的に重要な因素をいくつか確認し、それら因素の相互連関について試論的命題(仮説)を定式化することである。この仕事は、より成熟した官僚制理論ならば当然に包含せざるをえない一連のさまざまな概念の輪郭をえがけるような、ある理論モデルを設計することを目的とする。このモデルは部分によって証拠の多寡があるが、ともかく、これはわずかに一事業所を対象とした事例研究にすぎない。したがって、本書で提示される一般命題はどれをとっても、可能性として有効な仮説以上のものではない。それ以上を期待さるべきではない。
 工場事業場の管理様式を対象とする研究においては、経済政策の問題はいわばその裏面をなす。すくなくともウェーバーの時代以来、経済的諸問題の論議を管理問題から切り離して行ないえないことはまったく明白であって、経済政策および管理様式の選択は同一難題の裏表をなすのである。たとえば、「社会主義」と「資本主義」と一口にいっても、その用語が含む管理内容を明らかにしないで、どちらかの側にくみするということは、もはや無意味の沙汰というものである。
 いずれか一方の政策を推奨したり、ある管理様式の選択が他のものより「もっとよい」と主張したりすることは、社会学者の仕事ではない。しかし、社会学者が社会変動の適切な触媒でないからといって、現行の諸様式を「不可避性」の産物として既成事実に即した博識で正当化し、現行様式の弁解者として奉仕すべきではない。社会学者は、「あるべき」ものを説き明かしえないとしても、なお、いま一つの領域、「ありうるものの領域24」を扱う特権をもっているのである。ときとして官僚制の研究者たちは「こんにち可能な自由は、しょせん呪縛されたビジネスにすぎない」というフランツ・カフカの判断に安易に同意しているようにみえることがある。彼らのペシミズムの底には、選択可能性に対するとらわれた考え方が横たわっている。すなわち、一方ではユートピア的な、したがって達成不可能な民主主義のヴィジョンがあり、他方では達成可能だが官僚制によって掘り崩され、したがって不完全な民主主義の現実があり、この間に二者択一しかないと彼らは考えているのである。このような選択は無意味である、なぜなら、可能事と不可能事の間ではほんとうの選択はないからである。結局、択一的診断は現状に対する不満を拡散するだけであって、将来に対する解決をなんら提示するものではない。

(注24)「マキャヴェリはかくあるべきものの領域と、かくあるものの領域とを区別しようとした。そして彼は前者を排し後者をとったのである。しかし第三の領域、かくありうる領域がある。ヒューマニズムの領域といえるものが存在できるのは、まさにこの領域にほかならない。人間の講じうる処置とは、このような社会的可能事の領分を拡大することなのである。」(Max Lerner. Introduction to The Prince and The Discourses[‥]より全文引用)

 けれども、研究上の方法論と、研究結果から引き出される選択可能な方策の内容とはまったく別種のものである。具体的状況を吟味することによって、選択可能な方策が明らかとなり、そして単一ではなく多様な解決方向が発見されるであろう、というのがわれわれの前提である。選択可能な方策や多様な解決法の存在そのものがまさしく「ありうるものの領域」を証拠立てているのであり、かくして、利用できる政策の可能性が経験上豊富にされる。具体的にいうと、この研究は二つの可能な方策、すなわち、懲罰型官僚制と代表官僚制の間に選択の可能性があることを示唆する。端的にいうと、以下に紹介する研究は、たとえ理論の世界が灰色で、宿命を定められているとしても、日常生活の世界は緑豊かで、耕さるべき種々な可能性を有する(ゲーテの言葉ー訳注)、という確信によって行なわれたものである。[p.17-19]

第13章「結論」

 ロバート・マートンの所見によれば、現存する社会的必要性を満足させるための、種々な選択可能な方法を考察しないことは、既存の社会的パターンに対する、暗黙の・是認すべからざる帰依を結果するという。この健全な指針から、すくなくとも二つのはっきりと区別される意味を引き出すことが可能である。すなわち、

  • (1) 所与の社会的パターンを機能的に評価したならば、そのあとで同一の社会的必要性に供することが可能な代替方策がありうることを一般的に示す必要がある。
  • (2) さらに、それを超えて、同様な機能を果たすことができる特殊な代替案が示されるべきである。

この[石膏採掘&加工工場に関する]調査は、第二の推論によって導かれてきた。政策上の選択可能な案を、思索によってではなく、経験的な探索と、既存の機能的に同一なパターンの記述によって、倍増する努力を行った。
 社会学者は、医学の専門家の作業上の考え方に、自分たちの先達を求めることができると思われる。実際問題として彼らは、〈健康〉〈正常〉という言葉の学問的な定義や、人間の不可避的な不完全さについて敬虔な宣言をすることにエネルギーを費やすことをめったにしない。彼らは病気の削減に意を用いる。すなわち、彼らは人々を完全にするというよりも、病気にならないようにする。同様に、いずれにせよめったに見出すことができない概念であるユートピア的民主制の概念によってはぐくまれた危険性に対する警告を発する代わりに、官僚制が〈不可避〉であるか否かの問題に自分自身の関心を寄せつけるのではなく、官僚制の量やタイプの際を生み出す社会過程を判別することに取り組むことが、より建設的であると思われる。なぜなら、この種の差異は、人間の生活にとって決定的な差異を生み出すからである。この道を踏んでいくと、社会学者は、機が熟さずして人間の希望を葬り去ることに熱心な葬儀屋の役割を受け持つことを退け、民主的な潜勢力にあらかじめ限界を一方的に設定するのではなく、それをさらに伸ばすべく努力する社会治療者としての責任を担えるだろう。[p.274]