この項再考。
- p.237 創造に関する神学的な教義を背景をもつ伝統的な説の例: 「人間が認識できるのは、自分が制作できるものだけだ」
p.240
結局のところ、いかなる認識論の議論も、あるテクノロジーが誤った理論にもとづいて構成されているにもかかわらず機能する可能性を排除できない145。その場合には、確かにある因果連関が実現されたのだが、その機能についての説明は、あとから証明されるように、誤って記述されたわけである。じっさい、技術的道具の構成の可能性は、しだいに改善される自然の知識とその「法則」の「応用」に由来するのではなく、科学そのものの分解-再合成能力の向上に由来する。[…] 技術の場合に問題となるのは、合成の余地の検証であり、合成の利得である。技術はうまくいくときはうまくいくという事実は、この場合にも、実在がそのようになにかを許容することを示す唯一の手がかりである。いいかえれば、われわれは通常の過程を逆転させて、技術が自然と同型に構成されるのではなく、その都度関連のある合成空間のなかで、自然が技術的に検証可能なものと憧憬に構成される、と考える146。
(145) Trevor J. Pinch/Wiebe J. Bijker, The social Construction of Facts and Artifacts: or How the Sociology of Science and the Sociology of Technology Might Benefit Each Other, Social Studies of Science 14 (1984), S.399-441 (407)
http://sss.sagepub.com/content/14/3/399
p.241
テクノロジーは、壊れる可能性があるという観点のもとで何かを見る、一種の観察である。ここでの区別は〈無傷の/壊れた〉──であり、修理よりも学問に照準を合わせれば〈誤りのない/誤りのある〉──である。問題となるのは
しばしば想定されてきたように、特殊な因果性(機械的因果性)についての科学ではなく故障が起こった場合でも規則性のある過程を堅持することに対する特別な関心を表明するような観察の文脈である。