- [01] この問題を、価値概念に訴えて考察するのをやめるために、ここで「偶発性定式」概念を導入しよう。
- 例:
- 学システムにおける 制限性 Limitationalität(=否定の生産性)の原理
- 経済システムにおける 希少性の原理
- 宗教システムにおける 唯一神の理念
- 教育システムの 教養ないし学習能力の理念
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- 他システムとの比較を経由することによって、「正義を超える上位理念」(徳、原理、理念、価値など)に訴えることを省略しよう。
- [02] 法システムの場合には なにより、自然法的な正義概念(が成り立たなくなったことによって生じていること)が、偶発性定式概念を用いて 検討されなければならない。
- [03] 偶発性定式の機能は、〈規定不能なもの/規定可能なもの〉との差異を・歴史のなかで与えられている信憑性を用いて・循環論法的に・乗り越えることのうちにある。
- [04] これが「偶発性」定式と呼ばれるのは、〈規定不能なもの/規定可能なもの〉との差異でもって、〈現にある(把握された・指示された)事態/その事態を扱う他の可能性〉(の後者)を指示しているからである。
- [05] 「規定不能」から「規定可能」への乗り越えは、気づかれることなく・言い及ばれること無しに実行されなければならない(=この機能は正統化されない。それは潜在的に果たされなければならない)。
- [06] 「理念」的であるからといって、これは単に名目的な統一化であるわけではない。それは作動として遂行されなければならないのだから。
- [07] 正義という規範は選択基準(ex.ロールズ)ではない。(もし選択基準なら、それは他のプログラムと同じ水準にあることになる。)
- [08] 偶発性定式と選択基準の違いは、繰り返し見過ごされてきた。しかし
- 希少性は、経済的決定の合理性を判定する基準などではもちろんない。
- 神も、…、多様な世界のなかの 他のものと並ぶ契機の一つなどではない。
- [09] 偶発性定式は、増進や望ましい方向を示す(より多くの正義、より高い教養、よりわずかの希少性etc.)わけでもない。こうした捉え方は18世紀には説得力を持っていたが、コスト、否定的効果、逆機能、リスク、逸脱の増幅などを無視した場合にだけ可能なものである。
- [10] 正義という規範が抱えている問題の特色は、一般化と再特定化の関係のうちにある:
- 法システムの個々の作動は どれも、「正義であるべきだ」との予期から逃げられない。
- 正義の規範は、個々のケースにおいて方向付けをもたらさなければならないが、法システムの作動だからといって 正義に適っているとは限らない。
ここよくわからない。
- [11] 歴史的にもっと影響力があった正義の定式は「平等」である。
- それは本質、根拠、価値を指しているわけではない、という点で抽象的である。(根拠や価値が法の妥当に到達するためには、追加プログラムが必要)
- アリストテレスに始まる議論によって〈平等/不平等〉の双方が正義に服しうるとみなされるようになって、
- 一方では、正義は、法システムのあらゆる決定に関わるものになった(=完全性)。
- 他方では、システムの統一性が〈平等/不平等〉という差異によって表される、というパラドクスがあらわになった。
どこがパラドクス???
- [12] あらゆる偶発性定式のもつ中核的意義は、この不変の形式性にある。ここに多様な再特定化が充当されることになる。
- [13] では現代社会ではどうか。分化した社会には、更に追加で「適合性 &Ad¨quität」というメルクマールが必要(「一貫した決定の 適度な複雑性 adäquaten Komlexität」としての正義)
- いわゆる「応答性」。すなわち、撹乱されやすさ Irritabilität(乱されやすさ perturbability、敏感さ Sensitiviaät、共振 Resonanz)
→〈多様性/冗長性〉へ(第8章「法的論証)