606 芸術システムの構造的カップリング

6-06-01
  • [多くのほかの機能システムとは異なって]芸術への関与は自由である。積極的な包摂も受動的な包摂も、個人の決定に委ねられている。
  • 芸術をめぐる出来事に関与するのは、人口のうちのわずかの部分でしかない。また特に現代芸術の奇妙さがしばしば、排除を行っているのは芸術自身であるということを根拠付けるために持ち出されてもいる。芸術を観察し理解することはますます困難になってきているのである。
6-06-02

おなじことはこうも言える。

  • 芸術システムへの包摂/排除が、ほかの機能システムへの包摂/排除から広範にわたって切断されていることにある。

これによって生じる構造的カップリングの緩さによって

  • 近代芸術が、〔諸機能システムの分化・切断という〕近代社会の根本問題を象徴するかたちで展開してきたのはなぜなのかが説明されうる
6-06-05

芸術とは現実を《遊戯しつつ spielend》二重化することであり、それが芸術の進化の帰結であるし、また条件でも或る。ではしかし、この謎めいた二重体とはいったい何なのだろうか。それ自治はいかにして観察されうるのか。統一性としてだろうか。あるいは境界として…だろうか。それとも無として、しかしそれゆえに統一体としてであり、それが世界の観察不可能性を示唆するのに役立つということになるのだろうか。

6-06-06
  • 進化的(…)に成立したこの状態が、自己記述のより多くの可能性をもたらすということは明らかである。…
  • しかし記述可能性が多数あるというのなら、結局のところ多くのものを同時に選んではなぜいけないのだろうか。おそらくここで登場してきているのは、自己記述の《ポストモダン》な多次元性という問題である。全体社会がまずもって芸術という領域において行った実験は、まさにこの問題をめぐってのものだったのである。