現象学の人

このまとめが「現象学っぽい」かどうかさておき。http://d.hatena.ne.jp/kei1982/20040221#c

contractioさんなんかは、「現象学の人だからルーマンをそんな風に読むんだろー?困った奴だなー」みたいにぼくを見なしているようなふしが無きにしもあらずではないかと。逆に大学院のゼミではあいかわらず「機能主義者」「独我論」「現代思想に詳しい変わり者」「システム主義者」(なんだそれ)というレッテルが付与される困った状況ですが・・・
決めつけオヤヂか君は。
つーかそもそも君が「現象学の人」かどうかなんて知らんしね。
そうなの?
現象学的な-システム理論」を理解するのに「現象学」の知識が必要なのは論じるまでもなし。
顔出す場所によって、「現象学主義者」「機能主義者」「システム論者*1」「基礎付け主義者」「反基礎付け主義者」「主意主義者」「反行為論者」(以下略)‥‥と評価が変わるのは、私も同じこと。
私の自己規定は「プラグマティスト」であるにもかかわらず(w



ちなみに 北田本 第1章の議論は、ルーマンのキータームであるコミュニケーション概念を、ルーマン自身の“俺は発話行為論を批判的にとりこんだわけだが”という自己呈示(1984) に沿った線で、しかしルーマン自身は例によってちゃんと詳しくは論じずにぶっ飛ばして済ませているところを、非常に丁寧に敷衍してみせてくれた、──というもんになっていると思います。

シュッツについては、むしろ批判的な(そして的確な)コメントが挟まれていたのではなかったかしら?
これはなにしろ「ルーマンの自己呈示」路線なので、もっと早くに誰かがやっていてもぜんぜんおかしくないはずの仕事だったのですが、ちゃんとやったのは、しかし北田さんが(私の知る限りではたぶん)始めて。
ちなみに、「ルーマン自身がそう言っている」という線ではない線だと、この北田さんの仕事に比類しうる作業が1990年に西阪仰さんによって為されており、「ルーマニ屋クラシック」としていまでもリスペクトされてると思います*2。 こちらはエスノを用いたルーマン解釈になっており、ということは「あるイミ」外在的な解釈といえなくもないのですが、そこはさすがの西阪先生、他では味わえないような「なるほど感」を与えてくれるものになっていて いまでも充分にお勧めの一本です。というか必読文献なので、北田本 とあわせて読んでおくのが吉。↓
責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所


http://d.hatena.ne.jp/kei1982/20040221

でも、上の論点が『批判理論と社会システム理論』で問題になっているのでしょうか?
「上の論点」というのが「なんの論点」なのかうまく把握できてないけど。
北田本があそこで取り上げているのは、──「コミュニケーション」という語が、明示的に・術語的に導入された*3──1984年以降のルーマンの議論だ、とはとりあえず言えます。で、なんといっても『論争』[1971] からは10年以上もあとの話なんで「すでに戦線は動いてしまった」とも、術語使用方針が(それぞれの側で)明確になって「対立がよりはっきりした」とも、どっちともいえます。 この間に、ハバーマスのほうは、大著『コミュニケーション的行為の理論』isbn:4624010752 [1981] をだしており、上に書いたルーマン発話行為論へのコメントも、ハバーマスのこの本を意識したものだと読めるもの。で、両者の発話行為論への対応は、これまた見事に対照的*4なもので、その点が、北田本でも取り上げられている、というわけです。

*1:ちなみに私は「システム」という言葉を「引用」以外の仕方で使用することはないんですが...。

*2:なので同様に北田さんの仕事も将来のルーマニ屋たちにリスペクトされ続けるものになるでしょう

*3:それまでは、行為・コミュニケーション行為・コミュニケーションの間で術語が揺れていた。

*4:オースティンが提起した、発話行為・発話内行為・発話媒介行為のトリアーデについて、ハバーマスは「もっとはっきり区別して扱わないといかん」といい、ルーマンのほうは「分類に使うのはナンセンス。それらはどんなコミュニケーションにおいても、分離できない仕方で・あわさって登場しているはず」というようなことを述べたのでした[『社会システムたち』第4章参照]。