涜書:飯田『クリプキ:ことばは意味をもてるか』

ウィトゲンシュタインにもクリプキにも、それなりに はまり込んでみた(当者比)ことのある身としては、感慨なくして読めない本だった。


クリプキが言うように、ウィトゲンシュタイン懐疑主義的議論の結論を受け入れ、その結果、懐疑主義的解決を提案しているのだろうか。
 この問いを検討したウィトゲンシュタイン研究者のほとんどすべてが、それに否と答えた。常に指摘されるのは、201節をクリプキが引いているにもかかわらず、それはその冒頭にすぎず、その後半はクリプキのような解釈を入れる余地がないという点である。201節の全体を掲げよう。

201 われわれのパラドクスはこうであった。すなわち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜならば、どのような行為の仕方も規則と一致させることができるからである。その答えはこうであった。すなわち、どんな行為の仕方も規則と一致させるようにできるのならば、それと矛盾させることもできる。それゆえ、ここには一致も矛盾も存在しないことになる。
 ここにある誤解のあることは、こう考えるときわれわれは、解釈に次ぐ解釈を行っている点にすでに示されている。それはまるで、その解釈の背後に別の解釈を思いつくまではどの解釈も、少なくとも一瞬はわれわれを安心させるかのようである。これが示すことは、解釈ではないような規則の把握があるということであり、それは、規則のその都度の適用においてわれわれが「規則に従っている」とか「規則に違反している」と呼ぶもののなかに自然に現れるということである。
 規則に従う行為はすべて解釈であると言いたくなる傾向があるのは、それゆえである。しかし、規則のある表現を他の表現でおきかえることだけを「解釈」と呼ぶべきなのである。

[p.109-111]



クリプキ懐疑論は、「共同体」というベタなマジックワードを使って穴が塞がれていた。そのウィトゲンシュタイン解釈に同意できなかった私は、いわばこの概念に引きずられる形で「社会学の方へ」と近づいていくことになってしまった。が、おどろいた こまったことには、「社会学」の分野では── 一昔前は確かにそうだった、と思うのだが──クリプキの解釈はそれなりに受け入れられ、懐疑論的論調でもって「ルールに従うこと」について議論されていたりしたし、それどころか/あろうことか、そもそもそれ自体が解明される概念であるはずの

少なくとも──哲学ではない──社会学にとってはそうであるだろう!*1
この、「共同体」なるマジックワードにベタに依拠する議論すら往々にしてみられた(と思う。俺様記憶によれば)。
びっくり。


ウィトゲンシュタイン懐疑論的議論を「採り上げて」いる。しかしそれは、ウィトゲンシュタイン自身が懐疑論を「採用している」ということを意味するわけではない。<懐疑論的議論/懐疑論を経由した議論>という区別がなされぬまま行われる議論に、私は──当然ながら──うまく乗れないことがほとんどだった。(これはなかなかにツライ体験だったので、半ばトラウマになっているw。かもしれない。)
同じことだが。
クリプキを(/で)論じるのはいい。クリプキの議論は面白い、と私も思う(難しいが)。「問題ある解釈だとしても、それはそれとして独立の価値をもつ」と言われれば、それにも賛同しよう(「クリプキは天才だ!」と言われれば、さらにそれにも賛同しよう)。 それはそれとして。 しかしなぜ、もっぱらクリプケンシュタインばかりが論じられ、ウィトゲンシュタインは放っておかれがちになってしまうのか????  「懐疑論的議論」を経由したのでは不可能な議論があることを──クリプキに依拠してウィトゲンシュタインには依拠しないことで──隠してしまっていることに気づかないってのはいかがなものよ!?(しかも ほかならぬ社会学者が!)


‥‥そのようにして社会学は、私に多くの失望を与えてくれた。


が、失望だけを与えてくれた、というわけでもない。

[‥] かれ[=ウィトゲンシュタイン]によれば、哲学は、知的な理解を目指すものではなく、態度の変更を要求するものとして、感情や意志にかかわる営みである。したがって、仮にかれが、クリプキウィトゲンシュタインの提出するような懐疑的議論を取り上げたとしても、たぶんかれは、懐疑的解決であれその他の解決であれ、ともかく知的な仕方での「解決」を与えることが本質的だとは考えないだろう。むしろかれがしそうなことは、懐疑的議論そのものを組み立てている材料のひとつひとつを吟味して、そこから再び懐疑的議論を組み上げる気を起こさせないようにすることだろう。
[‥] [ウィトゲンシュタインにとっての哲学とは]哲学的問題をそれが生じているその瞬間においてとらえ、そこに微妙な誤解が入り込んでいることを明らかにしようとするものである。ウィトゲンシュタイン[‥]によれば、何かひとつの大きな誤解がすべての哲学的問題の根底にあるのではない。哲学的誤解はすべて、われわれが自身の言語を誤解するところから来るのだが、それをただせばもはや誤解におちいらないですむような、言語に対する理解の仕方があるわけではない。むしろ、われわれが日常的に用いる無数の言い回しのひとつひとつに罠が仕掛けられているのであった、そのそれぞれに対して対処の仕方はちがうのである。[p.122-114]



エスノメソドロジストが、次のような奇妙*な「方針表明」を行うのを目にすることがある:

などなど。
こうした「表明」がなされるときに考えられているのが、おそらく、二番目の引用文で述べられているようなこと**なのである。  ──と、現時点では、私は そのように理解している。

* これはいろいろな意味で「奇妙な」宣言だが、たとえば/まずは、第三者的にみて エスノメソドロジストが「一般化的な言明を行っている」ようにみえる場面や「理論化している」ようにみえる場面に出会うことがしばしばある、という点で「奇妙」である。
同様のことは──当然のことながら──ウィトゲンシュタインその人についてもいえる。つまり我々にはしばしば、ウィトゲンシュタインの書いたものが、「そこにおいて【言語ゲーム】(なる理論)が提唱されているテクスト」であるかのように、読めてしまう、というような。
この事態をどのように考えたらよいのか。これをクリアにすることは、もちろんまずは(たとえば私が)「エスノメソドロジー研究」を(そしてそのことを通して「エスノメソドロジー」を)理解するのに大事なことである。 だがおそらくそれだけではない。それはたぶん、「非-エスノメソドロジー研究的」な(つまり「ふつうの」)社会学にとっても 利得のあることではないか、と私には思われる。
** つまり、「われわれが日常的に用いる無数の言い回しのひとつひとつ」「それぞれに対して対処の仕方はちがう」という見解に「方針表明」の形式をあたえれば、【a】や【b】ようなものになるのだ!、ということ。


そして/しかし、この「ウィトゲンシュタイン風」のスタイルは、社会学の中では(/中でも)、どうやら「例外的」なものであるらしい。──私がひどく勘違いをしているのでなければ。それがどうしてなのか、いまのところまだ、私にとっては、残念ながら、相当に大きな謎のままである。
私自身は、エスノメドロジー研究が「特殊な何か」だとはおもわない。(上記のような把握がおおむね妥当なものであるとすれば当然のことながら、)ウィトゲンシュタインをくぐり抜けた目には、そうは見えない。
ウィトゲンシュタインは特殊だ」と言われる意味でなら「同様に特殊」だろうし、それに他方、社会学者の多くが「ウィトゲンシュタイン風」の方針を採用していなくたって それは構わないとも思う。でも、社会学のなかに ほかにも「そうしたやりかた」に従っているものはありそうなものだ、くらいのことは想定してもよいはずだろう。しかし、私はそれをみつけられないでいる。
エスノメソドロジーが【結果的に】特殊なものとなっている」という社会学この現状は、それ自体すでに充分に(?)【奇妙な】ものではないだろうか。 ──単に、私が知らない【どこか】に私の知らない【なにか】は存在している、というだけのことかもしれないけれど。

ところで、上の引用文を手がかりにして、ひとつの可能的な答えを考えてみることができるかもしれない。つまり。
一方に

  • エスノメソドロジーは、(社会学的問題に対して)単に知的な仕方での「解決」を与えるものではなく、また、
  • 社会学的問題の根底にある何か大きな問題」に「解決」を与えようとするものではない

ということがあり、
他方に──ひょっとして──、

  • 多くの「社会学者」にとって、「社会学」とは──ウィトゲンシュタインエスノメソドロジストが「探さない」まさに-ちょうど-その意味で──「知的な探求」であることが期待され・求められるものである

ということがあるのだとすれば。──この「ギャップ」こそが答えだ、という可能性。
仮にそうだとすれば、社会学において──ウィトゲンシュタインではなく──クリプケンシュタインが流行したのも、それはそれで「社会学知的ミリュー(/知的である社会学のミリュー)」の首尾一貫性を なにほどか示しているのだ、とかいった噺になるかもしれない。


関連ネタ>マイケル・リンチとデイヴィッド・ブルア:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040310
応答:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040731#1091273824
追記:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040801#1091370912

*1:という私の予想=期待が、そもそも「間違っていた」だけなのかもしれないが。