西垣通大先生『基礎情報学』を巡って

書こうと思いつつ書きそびれ続けていた大先生の著作

への酒井のコメントへの新訂カンタン系(id:faira)さんのコメント(6月27日)へのコメントをば、思いつくままに つらつらと
まず引用。(【】数字は引用者による)

【0】さて、それはともかく改めて西垣通「基礎情報学」批判を読んでみた。
【1】西垣通の読者とは、これまでの著作(特に小説)の帯に書かれていた言葉を思い出すと、「オタク嫌い」のSFないしはオカルトファンだということになる。つまるところ、西垣通の著作はそういったひとたちで真面目に勉強をしてしまいがちなひとをターゲットにしている。彼が登場してきて小説を書いた頃あたりからその傾向は継続しているはず。どー考えたって、社会学に詳しいひとは読まないか読んでも読まないことにするし、社会学を知らないひとが入門書として手にするという棲み分けが前提にされている著作だ。
【2】つーことを考えると、ルーマンについての言及が奇妙なことに孫引き率大杉!(もっと厳密に言うと本書後半になると息切れしているのが目に見えるし、孫引きと言わないまでも、それにちかいものが増える)とか、そーいったことを正直に書くことが入門書めいた著作題名に対する面倒くさいとしても真っ当な対応なんじゃないか。取りあえずひとつの布石だと僕は思う(ので、一応いま書いた)。でも、もし西垣批判をするのなら、オカルト的SF的語り口で批判するのが、西垣通の読者には良いのかもしんない、と9割冗談1割真剣に感じる(ミイラ取りがミイラになるだろうから、絶対やりたくないとしても)。それぐらい批判する立場の人と受容する立場のひとの距離は離れている。
【3】ところで、僕はこれは好事家として知りたいことがあって、それは西垣「基礎情報学」通を読む理由のひとつだったのだけれど、吉成真由美あたりから、こーいう文理ごちゃまぜにしたのって、当然のことながらSF的語り口が欠かせないんだけれど、西垣通の場合はどうなんだろうということだった。生命論だった。なんかなー、と思いつつ、絶対日本の現代思想流行の暗黒歴史と絡んでると睨んだので、一応チェックしたかった。ニューエイジってなんだったのかなーとか。あと、僕は斎藤環のメディア論の仕事が、どんどん情報学環な面持ちになっているような気がする。これも考えておきたい。つーか繋がりはあるんだろうけど、そのモヤモヤした感じが説明つかない。批判する・しないとかじゃなくて、純粋に系譜としてある何かがあるのでは、と考えているんだけれど、うーむ。



ニューエイジってなんだったのかなー」【3】な話はそれはそれで「歴史的に興味深い」話題ですが、さしあたり脇においときます。(「読者の棲み分け」という論点の延長線上に、いくつかステップを噛ませれば、議論は接続するようにも思いますが。しかしそれは「二の次」な話。)


前提として共有できるのは、「批判する立場の人と受容する立場のひとの距離は離れている」【2】という点。

ただし「社会学を知らないひとが入門書として手にする」【1】と書かれるとき、そこで「何の」入門書として考えられているのかは謎。(社会学のってことですか?──それはアリエナイ気がしますが.....)
もうひとつ。『基礎情報学』の「批判」には興味が無い、という点も。(私の方は、この著作が「批判」に値するものではないと考えているため、ですが。)
で。
以下とりあえず、「読者の棲み分け」という点に照準して話を進めます。
まず、3月1日の私のエントリはルーマニ屋の皆さん向けに書かれたものであって、西垣本の読者に向けたものではありませんでした。そしてあのエントリに漂う「無力感」は、既に私が「読者の棲み分け」を念頭においてあの文を書いていたことによります(「しかるべき人」が「批判」を書いてみたとしても、「西垣本の読者」にはほとんど届かないだろう、ということ)。
そもそも「しかるべき人が批判を書く」ということ自体が望み薄、です。「偉い人」(それなりに受け入れられている見解)にたいして行われる「批判」は学問的に価値を持ちますが、「ダメなもの」を批判しても価値があるとはみなされないからです。
そしてその前提のうえで、「でもこれ放置しておいていいんでしょうか?」と言ってみた、というのが3月1日のエントリだったわけでした。(ちなみにいまでは「放置しておいてよい」と考えてますけどw。)

なので次に、「ルーマニ屋」とか「社会学してる人」とかと「西垣本の読者」とを切り離した上で、後者に向けて語りうることを考えてみます。
「西垣本の読者」にとって、「西垣本のルーマン(その他)の解釈(のまともさ)」など、ほとんどどうでもよいことだろうと思います。なので、「ルーマンについての言及が奇妙なことに孫引き率大杉!」【2】とか、「解釈ヘンです」とか言ってみてもほとんどしょうがない。そもそも「大先生な方々」は おしなべて、このテの「批判」に対しては免疫があるものです(し、大先生好きの読者さんのほうも同様でしょう)。 たとえば──まさに西垣大先生のお弟子さんが「うってつけ」の例を与えてくれていますが──このように、です:

系譜学的には、またこれらの論者の「正統派の研究的文脈」で見たら、いろいろ問題のある解釈をたくさんしているかもしれません。まあ、「メディア」の問題に引き付けた、アクロバティック思考実験だと思っていただければ、結構楽しんでいただけるのではないかと思います。



あとは、「古人の書いたあれこれを正しく【解釈】することよりも、そこからいかに現代に生きる我々にとって【アクチュアル】な【読み】を引き出せるかの方が大事であるはずだ」、とか(藁。


でまた。カンタン系さんがこう述べるのには、ひょっとしたら──私には判断できませんけれども──一理あったりもするのかもしれません:

でも、もし西垣批判をするのなら、オカルト的SF的語り口で批判するのが、西垣通の読者には良いのかもしんない、と9割冗談1割真剣に感じる(ミイラ取りがミイラになるだろうから、絶対やりたくないとしても)。それぐらい批判する立場の人と受容する立場のひとの距離は離れている。

が、なにもそこまでサービス(?)するこたぁないだろうとも思います。(どっちみち私にはできないんでスルーするしかありませんが。)


といったあれこれを踏まえたうえで私がまずは思いつくのは、──「オート■イエーシス」だの「社会システム論」だの「生命記号論」だのついての──解釈のまともさの問題を迂回=無視した上でも判断が可能な点に焦点を絞ってみる、という方向。


てとこで眠くなったので、続きはまた今度w。



【追記】20040814 15:43
続き(というか続かず)。