ミシェル・フーコー氏の陳述作法が極めて悪質なものである件に就て。

なぜかまだ働いているわけだが。
とりあえず夜食を食う。




てことで、さぁなぞなぞの時間だYO!

『ディスクールの秩序』[1970]、最後の部分、

  • 4.〈批判的/考古学的〉という分析方針のグループによって、トピックがどのように扱われるかを手短に外観(しつつ、扱うべきトピックを絞り込んで再予告)する

ってところについて(明日以降にエントリする予定の)なぞなぞ表を作ってみていたわけだが。


20日のエントリに書いたように、『ディスクールの秩序』のストーリーは、

    • 今後の講義で扱いたいトピック群(以下Tと呼ぶ)をまず挙げ、
    • 分析の方針(以下Pと呼ぶ)を掲げ、
      • (さらにPの内部でグルーピングしたのち)
    • PによってTがどのように変形されるかを述べて、[→
    • 今後の講義の方向とプログラムを示す

というもの。だから、この著作で最も(少なくともそこに最大の注意を払う必要があるという意味で)重要なのは、の部分。

ちなみにこのスタイル=ストーリー展開は、『知の考古学』のそれと同型のものだね。
Tが最初に明示的に登場する箇所でフーコーがこれに割り当てた言葉は「手続き」であり、同じくPに割り当てたのは「原理」である。

この術語の選択が すでにまずは許容しがたいものに思われる*1のだが、その点は──理由を述べる準備がないので──56億7千万歩ほど譲るとして。

したがって、この、ストーリーと術語使用の約束がわかれば、あとは、著者が 「T:手続き群」と「P:原理群」をどのように関係づけているのか、それを著者のガイドに従って読みとっていけばよい、という話になる ──筈である。ふつうは。
が。
フーコー先生の場合は、そうは問屋がおろさない。
だって先生、Tを指示する語を勝手にどんどん変えちゃうんだもん(爆藁。‥‥ていうかぜんぜん藁えない。


誰にでも「手癖」はあり、また各国言語習慣事情というものもある。たとえば、同じ指示先にもかかわらず、文中にそれが頻出する際には 語を換えたりしないと教養がないと思われる、という難儀な言語もあるらしい(私は知らないが、おそらくフランス語もそういう類いの言葉なんだろう)。それはいい。
が、このエントリ末尾に掲げた表を見れば、それが「いろいろな」意味で、読者の読解可能性=許容範囲を超えている、ということに同意してくれる人は少なくないに違いない。つまり──私のいいたいのはこういうことなのだが──、この本が理解できないのは、単に訳者が悪いせいでもなく(確かに訳者は悪いがしかし)、私の頭が悪いせいでもない(確かに私の頭は悪いかもしれないがしかし)ということ、これである*2


で、どう「いろいろな」のかといえば。
まず、Tを指す言葉を勝手にあれこれ変えられると、

  • どれが「T」なのかわからない
  • 「T」が、どのように内部分類されているかわからない
    • 次々に登場する形容、説明、敷衍などが、その都度それぞれ、「T全体」に関わるのか、「Tの部分集合(のどの階層)」に関わるのかわからない

といったことが平気で生じる。

実際。今日なぞなぞ表を作っていて気がついたのだが、→この表には見落としがあった。「言説の制限の手続き」を指す表現はp.65まで登場しないと書いたが、実際には p.31 に登場していた。が、それは単なる私の注意不足のせいだけで生じたものではないと思う。頭からこの本を読んだとき、「制限」という語が「2-1〜2-3を共通に指示するために術語的に用いられている言葉」であることに気づく方が難しい。



が、これはまだかわいい*3部類。
もっと致命的にまずいのは、フーコーが、Tを指示する語の言い換えの中にPを指示する語を含めてしまっていること、これである。


もう一度書くと、『ディスクールの秩序』の読者は、この本を一度通読して上記のストーリーがわかれば、この著作の理解にとって、

著者が、TとPをどのように関係づけているか

こそが重要であることに気づき、少なくともその箇所は、他の箇所よりもいっそう注意深く読もうとするだろう。

しない香具師はDQN。


ところが。
まさにその「TとPの関係」が述べられる箇所で、TとPを指す語が混用されたならば、そこに

およそ理解不可能な奇怪な文書

が登場する、というのは火を見るよりもあきらかなこと。──だと私は思うのだが あなたどう思うか。
わかんなくてあたりめーじゃねーか。もうねあほかと。


てことで。
p.9〜p.47 の範囲で、フーコー先生がTを指示するのに使用した語彙一覧はこちら:

p.09 手続き
p.11 原理
p.14 システム
p.18 システム
p.22 手続き
p.22 システム
p.23 原理
p.28 原理
p.31 原理
p.32 原理
p.37 原理
(p.38 形式)
p.38 原理
p.38 機能
(p.38 役割)
p.38 手続き
p.44 手続き
p.44 メカニズム
p.46 手続き
p.46 形式
p.47 働き
( )つけたところは、ちょとー自信がない (゜ー゜*)。


ちなみに。
ついに「」が開陳される、まさにその冒頭の箇所[p.62]で 彼がTを指示するために用いる言葉は、あろうことか/なんと‥‥「形式」なのであった。

上記の表で、この言葉は2度しか出てこない(私の見落としがいくつかあったとしても、数はそんなには増えないと思いますが....)。
なので、私はこの語「形式」がTをさすことに、「おやぢのベタ読み」格律を2重に使用して(明日以降に掲げる予定の)表をつくっている途中でようやく気がついたのだった。
ちなみにこの事情は、Tの下位分類(の第一階層)が「排除/制限/従属=所有」であることが明示的に掲げられていないことによる。つまり気づいた順序は、まず 表を作りながら「どれが下位分類(第一階層)のラベルなのか」を「発見」し、それによって、語「形式」がTに充てられたものであることがわかった、ということなのだった。

つーか、クロスワード・パズルかよ、と。



これをみると、フーコー先生はとても「principle」という言葉がお好きだ、と推察される。
で、手癖でもって、どんどん文章を書いちゃう、と。

‥‥なんてことがわかってもなんにもうれしくないよ......

*1:ただし「principle」という語は「方針」とも訳せる。そう訳してよいなら(俺様的)許容範囲に落ちる。その意味では、これは訳の問題だと考えてみる線もありうる(かにみえる)が、それは無理だ。 だって──すぐ下で述べるように──フーコーは、分析・記述のやりかた・作法についてだけでなく、記述対象・記述領域のほうについてもこの言葉を使っているのだから。「方針」という(訳)語は、記述対象を形容するのには 使わない=使えない。

*2:© 渡辺二郎

*3:かわいくないが。