なぜかまだ働いているわけだが。
とりあえず夜食を食う。
てことで、さぁなぞなぞの時間だYO!
- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,中村雄二郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1995/08
- メディア: 単行本
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- 4.〈批判的/考古学的〉という分析方針のグループによって、トピックがどのように扱われるかを手短に外観(しつつ、扱うべきトピックを絞り込んで再予告)する
ってところについて(明日以降にエントリする予定の)なぞなぞ表を作ってみていたわけだが。
20日のエントリに書いたように、『ディスクールの秩序』のストーリーは、
- 今後の講義で扱いたいトピック群(以下Tと呼ぶ)をまず挙げ、
- 分析の方針(以下Pと呼ぶ)を掲げ、
- (さらにPの内部でグルーピングしたのち)
- PによってTがどのように変形されるかを述べて、[→■]
- 今後の講義の方向とプログラムを示す
というもの。だから、この著作で最も(少なくともそこに最大の注意を払う必要があるという意味で)重要なのは、■の部分。
したがって、この、ストーリーと術語使用の約束がわかれば、あとは、著者が 「T:手続き群」と「P:原理群」をどのように関係づけているのか、それを著者のガイドに従って読みとっていけばよい、という話になる ──筈である。ふつうは。
が。
フーコー先生の場合は、そうは問屋がおろさない。
だって先生、Tを指示する語を勝手にどんどん変えちゃうんだもん(爆藁。‥‥ていうかぜんぜん藁えない。
誰にでも「手癖」はあり、また各国言語習慣事情というものもある。たとえば、同じ指示先にもかかわらず、文中にそれが頻出する際には 語を換えたりしないと教養がないと思われる、という難儀な言語もあるらしい(私は知らないが、おそらくフランス語もそういう類いの言葉なんだろう)。それはいい。
が、このエントリ末尾に掲げた表を見れば、それが「いろいろな」意味で、読者の読解可能性=許容範囲を超えている、ということに同意してくれる人は少なくないに違いない。つまり──私のいいたいのはこういうことなのだが──、この本が理解できないのは、単に訳者が悪いせいでもなく(確かに訳者は悪いがしかし)、私の頭が悪いせいでもない(確かに私の頭は悪いかもしれないがしかし)ということ、これである*2。
で、どう「いろいろな」のかといえば。
まず、Tを指す言葉を勝手にあれこれ変えられると、
- どれが「T」なのかわからない
- 「T」が、どのように内部分類されているかわからない
- 次々に登場する形容、説明、敷衍などが、その都度それぞれ、「T全体」に関わるのか、「Tの部分集合(のどの階層)」に関わるのかわからない
といったことが平気で生じる。
が、これはまだかわいい*3部類。
もっと致命的にまずいのは、フーコーが、Tを指示する語の言い換えの中にPを指示する語を含めてしまっていること、これである。
もう一度書くと、『ディスクールの秩序』の読者は、この本を一度通読して上記のストーリーがわかれば、この著作の理解にとって、
著者が、TとPをどのように関係づけているか
こそが重要であることに気づき、少なくともその箇所は、他の箇所よりもいっそう注意深く読もうとするだろう。
ところが。
まさにその「TとPの関係」が述べられる箇所で、TとPを指す語が混用されたならば、そこに
が登場する、というのは火を見るよりもあきらかなこと。──だと私は思うのだが あなたどう思うか。
わかんなくてあたりめーじゃねーか。もうねあほかと。
てことで。
p.9〜p.47 の範囲で、フーコー先生がTを指示するのに使用した語彙一覧はこちら:
p.09 手続き p.11 原理 p.14 システム p.18 システム p.22 手続き p.22 システム p.23 原理 |
p.28 原理 p.31 原理 p.32 原理 p.37 原理 (p.38 形式) p.38 原理 p.38 機能 |
(p.38 役割) p.38 手続き p.44 手続き p.44 メカニズム p.46 手続き p.46 形式 p.47 働き |
ちなみに。
ついに「■」が開陳される、まさにその冒頭の箇所[p.62]で 彼がTを指示するために用いる言葉は、あろうことか/なんと‥‥「形式」なのであった。
なので、私はこの語「形式」がTをさすことに、「おやぢのベタ読み」格律を2重に使用して(明日以降に掲げる予定の)表をつくっている途中でようやく気がついたのだった。
つーか、クロスワード・パズルかよ、と。
これをみると、フーコー先生はとても「principle」という言葉がお好きだ、と推察される。
で、手癖でもって、どんどん文章を書いちゃう、と。