遅い夕食。俺がいちからコチーク(・∀・)シュギ!を勉強するスレ。俺コチ。
- 作者: 上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2001/02/01
- メディア: 単行本
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以下、北田論考について未来の自分のためのメモをすこし。
“「証言の真偽をさておいて、証人のマイノリティとしてのアイデンティティー・ポリティクスを尊重する」とか言ってしまうと、当の証人の【何か】が傷つけられてしまう‥‥ということがありうるよね”と、誰かが私に言ったとしたら、私は「確かにそういう【何か】はあるだろうな」と思うだろう。しかしその何かが「存在の金切り声」だ と言われたら 困ってしまう。いったいそれがなんなのか、私にはわからない。
なぜわからないのだろうか。何がわからないのだろうか。
「存在の金切り声」は、3節のおわり【3】に登場する。いったいこの声の主──存在さん──はどこから出て来たのか ‥‥と探してみると、3節の冒頭にこんな問いかけがみつかる:
はたして歴史記述の場面において、過去の実在をめぐる問い(存在論)から独立した純粋な認識論(いかに知りうるか)というもの、を有意味に語ることができるのだろうか。[p.264]
この↑引用文の意味を解するのは、私には難しい。しかしおそらく、だからこそ、
存在さんの金切り声 がどういうものなのかもわからない ‥‥そういうことなのだろう。そしてそれは私が、「存在」とか「認識」とかいった言葉を哲学的(あるいは理論的)な仕方で使うやり方がよくわかっていない、ということのせいであるような気がする。だとすればここで著者に文句を言うのはお門違い、ということなのだろう。
ということでここはすごすごと退却し、とりあえずは1節と2節の骨組みを抜き出しておくことにする。
- 「【過去の出来事に関する表象=記述】を【事実】に照らして、その真偽を云々する」こと への懐疑から出発して、
- 「記述の真偽」から「記述の適切性(証言の受容可能性:現在入手可能な証拠との現時点での整合性)」へと関心をシフト。
=「AはCを殺したのか?」とではなく、「現在において「AはCを殺した」という記述は適切か」と問う。
- 【強い歴史的構築主義のテーゼ:C1】
あらゆる過去の 出来事=現実e は、記述がなされる 時点t における記述者の信念、知識(の表象)によって構成される。[p.258]
- [考察1]:★存在にかんするカントのテーゼ──「“〜が在る”は事象的な述語ではない」
- →[帰結1]:「真/偽」の問題を「適切性」の問題に還元することはできない
→C1は維持できないので、「問題になっているのは〈過去そのものではない〉」ということにしてC1を弱めると、C2が登場する──
- 【弱い歴史的構築主義のテーゼ:C2】
- (a)過去の出来事eについての 記述D1、D2……Dn は、記述がなされる 時点t における記述者の信念、知識(の表象)によって構成される。
- (b)eが 存在する/しない の判断は態度を留保する。[p.258]
- 【実証主義者のテーゼ:(*)】
現時点で持ちうる証拠に照らして受容可能な記述Dが、にもかかわらず偽でありうる
- [考察2]:ここでも[帰結1]が効くので、弱い歴史的構築主義者は(*)を認めなければならない。
- →[帰結2]:??????
この議論をフォローするのは難しい。
私には、ここで なにが前提として用いられ、なにが帰結として得られているのか、自信をもって指示することができない。
ともかくも2節の最後の一段落を引用しておく:
実際、反実在論を本気で唱える構築主義者がいないように、自らが提示する記述を永久不滅の真なるものと考える実証史家──脱コンテクスト的な真理の対応説擁護者──もいないのではなかろうか。かれらは二値原理を前提しつつ、現在収集可能な証拠から適切な歴史記述を構成し、一応(prima facie)真な記述を提示する。歴史の裁判官は、状況証拠からだけでは犯行を認定できず、過去の出来事と因果的につながりのある物証を必要とするし、判決を下した後にもなお冤罪でありえることを否定しない(実在論を手放したとき、我々はもはや冤罪という概念を有意味に理解することすらできなくなってしまう)。 実在論を認めてしまったHCは実はこの裁判官と同じ位置にあり、そしてメタ・ヒストリーなるものも裁判官を裁く法廷に与えられた名前なのだとは考えられないだろうか。もちろん、メタ法廷の審級上昇を止めることができるのはケルゼン流の「根本規範」しかない。[p.263]
ちょっとむつかしすぎ。
要再考点ふたつ。
「適切性」というのは どういうことだろうか。
テーゼ(*)とテーゼ【〓】
実証主義者のテーゼ
- (*)現時点で持ちうる証拠に照らして受容可能な記述Dが、にもかかわらず偽でありうる
よりもゆるい、(私が認めることのできる)こんなテーゼを考えてみる:
- 【〓】事実というのは、いつもあとから修正される可能性があるものだ
【〓】と(*)はどのくらいどのように違うだろうか。
「二値論理」のほうへ一歩近づくように展開してみると、
- 【〓'】「修正され(う)る」ということは、その都度「何かが〈やはり正しかった/じつは間違っていた〉とされ(う)る」ということだ
‥‥といったところか。
【〓'】に同意すると、私は──自動的に──【二値論理と実在論】にもコミットしたことになるのだろうか。
2番目の疑問については、おそらくここ↓と関係しているのだろう:
しかし、果たして本当にそうだろうか。たしかに、出来事の同一性についての一意的な規準を手に入れることができないのだとしても、たとえば我々は「(5)Aは盗塁を決めた」とか「(6)Aはサインを見逃した」といったAの行為にかんする記述が件の《悲劇》と無関連なものだということは認知することができる。これは、(4)が、ともかくも (1)〜(3) と併置されるべき複数の可能な記述の一つとみなしうるのと対照的である。どうやら我々は、(1)〜(4) を、何らかのかたちで比較対照可能な記述群として(5)や(6)と区別してしまっているのである。もちろん、この区別の規準も一意的に示すことは不可能である。だが、〈(1)〜(4) と記述されうるような出来事eが存在する〉という実在論を立てるならば、とりあえずかかる区別が存在することへの説明を与えることはできるだろう。 [p.265]
我々は(1)〜(4) を[‥]区別してしまっている」
というのはなるほどその通り。
問題──というよりも、私が現時点で同意することを躊躇してしまう点──は、その次のステップ「実在論を立てるならば[‥]区別が存在することへの説明を与えることはできる」のほうにある。
この主張が間違っている(=正しくないことを言っている)といいたいのではない(正しいかどうかは知らない)。
「Xを採用すればYが説明できる」のだとしても、しかしそもそも、そう「説明」することによって、何をしたことになるというのか。否。なにがしたくて・なにが嬉しくて そんなこと(=説明)をするのか。‥‥それが私にはわからない のだった。
それに、「〈(1)〜(4)/(5) (6)〉という区別」は──社会学者によって 理論的に(=実在「論」によって)説明=解決される以前に──、社会学の記述の対象領域において、すでになされていた筈のものではないのか。そちらのほうの立場はどうなるのか。
「【〓】→(*)」という移行は、★(「存在の超越性」という観念)に支えられている。この点も要再考。
ところでここで、この論考にもまた、「或るeは、(1)〜(4) とは結びつくが、(5)(6) とは結びつかない」という形式をもつ文が登場したことをマークしておこう。
「歴史はフィクションとは違う」。──それは私もそう思う。
しかし、北田論考をみると、実証主義者も構築主義者も──そして著者もまた──、
歴史とフィクションが違う(or 違わない)ということを、どうやって(一般的に)擁護できるか
という──一般的な──問いをたてているようにみえる。そんなふうに問をたてなければいけないものだろうか。
いや、たててくれてもいいのだが、それを解くのは社会学者の仕事だろうか。
我々は歴史とフィクションの違いをマークするのに成功したり失敗したりする。「区別の一般的可能性条件*」のようなものを考えたとたんに、当のマークする活動は視野から外れることにならないだろうか。