1995『社会の芸術』01-3

ISBN:4588008005

要旨:

  • 意識とコミュニケーションをカップリングさせるものには言語があるよ。でもそれ以外にもそういうのはあるよ。芸術作品がその例だよ。

非言語的コミュニケーションの例 [p.24〜]

  • 間接的コミュニケーション:
    • 例1)【定型化されたジェスチャー】 記号レパートリーの拡張的な使用
    • 例2)【意図が不明な行動】
  • 芸術: 芸術は、言葉によっては(もちろんのこと概念によっても)適切に再現されえないにもかかわらず、あるいはむしろそのゆえに、コミュニケーションとして機能する[p.25]
【意図が不明な行動】について

 [定型化されたジェスチャーとは]別の種類の間接的コミュニケーションに相当するものとして、ある行動がコミュニケーションとして意図されたものなのどうかが不明なままの場合、あるいは その点について説明する必要が生じるかもしれない場合 がある。これは一種の境界例に相当する。そこではコミュニケーションが、コミュニケーションとして意図されたものではまったくないような行動に反応してしまいかねないのである。

ある人が服飾コードに違反している場合を考えてみればよい。それは無知からであるかもしれない、適当な服を持っていなかったからかもしれない。しかしもしかしたら挑発しようとしているのかもしれないではないか。
文化的産物(文体を含む)の領域における違いがシグナルとしての効果を持つという事態に関するブルデューの分析が扱っているのは、この現象なのである*。しかし、その効果を意図していたのか と尋ねられた場合には、否定することも可能である。否定できることが知られているからこそ、意図を尋ねるコミュニケーションは広範囲にわたって禁じられているのである。あるいはそのような問いかけは挑発としてのみ可能なのだと言ってもよい。その問いを口に出すことができるのは(‥)ブルデュー主義者くらいのものである。
* ISBN:4938661055 ISBN:4938661063

わ け わ か ら ん 。

けど、この分類図式が、『公式組織』〜『社会システムたち』〜『社会の芸術』で一貫して用いられていることまでは確認できますな。
芸術の場合

 口頭コミュニケーションにおいては「イエス/ノー」のコードが厳格に適用される。芸術も間接的コミュニケーションと同様に、ただし異なる道筋においてそのようなスタイルからは離れていく。

もちろん芸術も、芸術について語ることを排除できないし、排除しようと望んでもいない。ある芸術作品が成功しているとの、また失敗しているとの表明がおこなわれ、その表明の伝達が受け入れられるか拒絶されるかという分岐が生じてくる。しかしこれは芸術についてのコミュニケーションにすぎず、芸術を通してのコミュニケーションではない。

芸術作品そのものが関わるのは、近くの働きを備えた観察者である。そして近くの働きはその拡散性のゆえに≪イエス/ノー≫の分岐を回避するのである。われわれは見ているものを見、聴いているものを聴く。そうしている人を別の人が、知覚している者として観察する場合でも、知覚そのものに異を唱えることはできない。かくして、否定されえない社会性が成立する。芸術は言語を回避しつつ、あるいはむしろ迂回しつつ、やはり意識システムとコミュニケーション・システムの構造的カップリングを実現する。しかし言うまでもなくその次の段階で問題になるのは、この事態がいかにして、何のために用いられるかである。[p.25-26]

まぁ.... ごにょごにょ....