ルーマン『福祉国家における政治理論』

移動車中にて3周ほど。
すげー久し振りに読んだら内容全然覚えてなくて新鮮な読書。
「こんなもん、いまさら翻訳だしても(ry」と思ってたけど、読んでみたらそうでもない。
堂々巡りの議論が二周りくらいした感じのところで──「そして振り出しに戻る」──、いま読んでもけっこう面白いかもね。

福祉国家における政治理論

福祉国家における政治理論

旧世界においては、
  • 分化形式でいえば、〈中心/周縁〉あるいは〈上/下〉区別のもとで前者(としての貴族)が全体を代表していたよ。
  • 機能でいえば、政治と宗教が 社会の方向付けの主導権を巡って争っていたよ。(→〈市民社会/corpus Christi〉)
そしてこうした状況は、どっかの時点で崩壊してしまったよ。(以上大意)

 政治理論はくりかえし──ヘーゲルからトライチュケをへてレオ・シュトラウスハンナ・アーレントにいたるまで──この↑〔ヒエラルキー的分化形態の解体、という〕診断に反論し、国家ないし政治を、社会の舵取りの中心として・社会の中で社会と共に起こることに対する倫理的な基本責任主体として、理解しようと努めてきた。それは典型的には──そして特徴的なことに!──ギリシアプラトンないしアリストテレスの政治概念に立ち戻るかたちで行われる。とうに通用しなくなった古臭い概念装置が、新しい要求によって新たな説得力をもったように思われる。そこで、現在の理論的・政治的な方向付けの根本的な問いの一つは、つぎのようになる。すなわち、

  • ヒエラルキー的分化形態の解体、という診断に即応して、〕中心のない社会という考え方を保持することができ、まさにそこに民主的で高性能の政治が行われる為の諸条件をみるのか、それとも
  • 全体社会システムの状況に直面して、政治にふたたび中心的責任をわりあてることができるばかりか、そうすべきであると信じるのか。 [p.18-19]
それによって政治の 現在の限界や民主主義的な意見決定の重苦しい手続きは、吹き飛んでしまうかもしれないが。

いやー。なんか催眠効果あるねこれ。
安らぐわwww