涜書:フーコー『知の考古学』

Archaeology of Knowledge (Routledge Classics)知の考古学 (河出・現代の名著)
前エントリの続きで第III章。

「言表」と「4要素」の関係について、事情はどうなっているのか。第III章3節を再掲:

言説を分析する際に目指される 対象・類型・概念・戦術 という四つのdirectionは、
言表機能が行使される四つの領域に対応する。[p.177]
The four directions

in which it [=discours] is analysed (formation fo objects, formation of the subjective positions, formation of concepts, formation of strategic choices),
correspond to the four domains in which the enunciative function operates.[p.130]

ではその「言表の4つの機能(言表の機能の4つの側面・特徴・場field/domain )」とはなにか。
それは第3章第2節「言表の機能」で挙げられている:

  • a) a referential
  • b) a subject
  • c) a associated (enunciative) field
  • d) a (repeatable) materiality



このうち (a), (b) & (d) は (特殊)社会システム論でも お馴染みの議論。

言表の──(特殊)社会システム論の場合であれば)コミュニケーションの──連鎖のほうからみられた「a) 指示対象」と、言表がアドレスされる「b) 帰属*先=発話者」。
(特殊)社会システム論では*1、これらを「a') Fremdreferenz」「b') Person**」といいます♪
* (特殊)社会システム論では*2、この帰属のことを「複雑性の縮減」といいます♪(特にいまのコンテクストでは、(a) は、もっと限定的に「Information」と翻訳できそうだ。)
** フーコーは〈言表レベルにある主体/言表レベルにない主体〉という区別を論じているが、(特殊)社会システム論ではこの場所に〈Person/Mensch〉という区別が用意されている。ルーマンの(それなりに人口に膾炙した)悪名高いあのフレーズ「人間はシステムの環境にゐる」(&「人間はシステムではない」)が位置するのもここである。EMでは、この位置に「メンバー」という概念が──そしてまた、「メンバーは人間じゃない」(© ハロルド・ガーフィンケル)というコピーが──用意されている。)
消極的にいえば、a) によっては、言語について〈構文論/意味論〉を区別して考えるような発想を採らないことが、b) によっては、言表の「背後」に それを 支えるものhypokeimenon を探しにゆくやりかたを採らないことが、それぞれ述べられている。
同様にして、d) も、あくまで言表の隣接・接続関係のほうから把握される「物質性」のこと。
しかしこの反復可能性はむしろ、「Idealität」とでも表現したほうがよいような気もするがどうか。


c) は、い わ ゆ る 意味での「コンテクスト」から区別される概念。しかしEM者は こちらのほうこそをコンテクスト(とか 場面setting* とか)と呼ぶ(ので、しばしば、他の人と話があわないw)。2節のこの箇所を参照:

* (特殊)社会システム論では*3、これを「社会システム」といいます♪
つまりこれは、(特殊)社会システム論における、「社会システム」という語の定義
おそらく、この事情があるために、ほとんどの論者の「社会システム」という語用と、(特殊)社会システム論者の語用は著しく異なってしまい、しばしば話が通じなくなる。(もっとも、特殊者=ルーマニ屋どうしでもしばしば話が通じないわけだがw。どうなっておるのか。(社会は複雑だ。))


このへん、いろいろと詰めて考えてみると面白そうなネタがたくさん転がっていそうだが、さしあたりフーコーの狙いは分かってしまったので、先を急ぐ事にする。(もう秋田市。)
が、単に通り過ぎるのもアレなので、いちおうまとめを書いておく。第III章2節をフーコー自身の表現に真っ向から歯向かう俺様ボキャ&俺様発想で定式化すると、こんなことになるんじゃないか、と:

発話行為(=エノンシアシオン)は、

  • a)(何物かとしての)何かについて、
  • b)(誰某としての)誰かによって、
  • c) 特定の場面において、

しかも、

  • d) 反復可能なものとして、

なされる。

そのうえで/これに対して、これをフーコーの議論に馴染むように補遺を加えると:

  • 普通これらは、
    • a)「指示対象(or 発話内容)」、
    • b)「発話主体」、
    • c)「コンテクスト」、
    • d)「(意味の)Idealität」
      などと呼ばれるが、
  • しかしここで謂う「コンテクスト(=場面)」とは──〈それによって「言表」(の意味)が確定される〉とされる、ふつうの意味のそれではなくて──
    • 「或る言表が、そこにおいて生じる 場field/domain である」というだけでなく、同時に、
    • 「その言表自体が、その 場field/domain をつくりあげる一つの 指し手move となっている」
      という事情*を指すために使われている。
      EM者は、これを「相互反映性reflexivity」といいます♪
      (特殊)社会システム論では*4、これを「オートポイエーシス」といいます♪
  • つまり、ここでいうコンテクスト(a associated enunciative field)とは、──観察者が勝手に規定できるものではなく──、ある言表が、他の言表とともに作り上げているものなのである。(記述されるべき 言表空間enunciative field を適切に取り出してくるということは、そのような意味での「言表のコンテクスト=言表が-連結したassociated*-領野field」を言表の連関に即して取り出してくることでなければならない。)
  • ところが、そのような作法を踏まえると、上記の術語は、それぞれふつうの使われ方とは相当に意味内容がズレてしまうので、言葉遣いはすべて変更したほうがよい。そこで、言葉の使い方を次のように取り決めよう:
    • a)「指示対象(or 発話内容)」ではなく「a referential」と呼ぼう。
    • b)「発話主体」については言い換えを思いつかなかった*5。ので「(言表のレヴェルにある)主体」ということでひとつ。
    • c)「コンテクスト=場面」については、「a associated enunciative field」と呼ぼう。
    • d) 「(意味の)Idealität」ではなく、「a repeatable materiality 」と呼ぼう。

て感じ♪

* ちなみに associate には コロイドの会合 の意あり。訳語としては(イメージ的に)ぴったりかもね。
──もちろんこれはフーコーがこのように書いている、という意味での再構成ではなく、
俺様ならこう書くがな

という意味での再構成(のつもり)。
このネタは真面目にやれば卒論くらいにはなるのでは。だれか持ってって取り組んでくれたまえ(きっちりツメてやったら修論でも可)。
論文書いたらコピーください。


さて。
いま知りたいのは、これら「言表の機能の4側面」が「言説の4要素」とどういう関係にあるか、であった。──ではそちらの方へ。

*1:© 宮台、c鈴木 et al.

*2:© 宮台、c鈴木 et al.

*3:© 宮台、c鈴木 et al.

*4:© 宮台、c鈴木 et al.

*5:なんでこれだけは言い換えないのか。わけわからん。

割り込み/権力

切ない。どうしたものか。(いや、どうしようもない。その筋の方、親切な営業ご指導を。

■ [武田徹]6/1記(旧ブログより移動)

ジャーナリズムが硬直した権力関係の地勢図を描きがちなのは、権力分析の道具を持たないからでもあるだろう。たとえば、ぼくは『調べる、伝える、魅せる!』の中でエスノメソドロジーの会話分析の方法を、取材における権力構造の分析に使うことを提唱した。そのときは社会の権力構図の分析以前に、ジャーナリズム自身の権力に注意深くあるためにそんな分析の導入が必要だとされていたが、この方法はそのまま社会の中の言葉によるやりとりに応用が可能で、一般的な権力分析の調査解析にも使えるはずだ。ジャーナリズム論は印象批評的なものが多く、せいぜいが統計調査を盛り込む程度で、科学的分析理論を持ち出すものは少ない。そこはまさに致命的であって、ジャーナリズムはもっともっと(自然・社会・人文科学の方法を導入して総合的かつ)科学的に解剖されるべきだと思うし、また理論論な分析の道具を自らの武器としてゆくべきだと思う。理論的なジャーナリズム批評とジャーナリズム実践を同じ地平で繰り広げてゆく、そんなことが教育の場で出来ればと思うのだが。ジャーナリズム論の文脈の中で、たとえばエスノメソドロジーの理論を引用するのが見られるのは珍しいと自負します(もちろんエスノメソドロジーって何だという人にもきちんと説明しますのでご安心を)ー武田徹ブログよりー

 テープ起こしをおやりになるプロは“エスノメソドロジー”のことはよく分かっていると思いますが、『調べる、伝える、魅せる!』の会話の分析(68頁〜)で、ぼくのような素人にも概略分るように説明してくれている。しかし、滞りなく続く自然な会話の進行法則に、往々にして違反する会話者が登場する。

前の話が終わっていないのに割り込んできたり、指名されていないのに話を始める。あるいは逆に指名されているのに沈黙をもって返す……。こうした逸脱が起きるのは権力関係の反映だと考えられる。

「会話分析」を使うというのはすばらしい(のでどんどんやっていただきたい)が、こうした↑「割り込み有るところ権力あり-分析」を「エスノメソドロジー的」とは言わないと思う。

「割り込みが有ること」と「権力があること」とが異ならないのであれば、その事態を記述するのに「権力」なる概念は冗長なだけ=必要がない。(ましてや「反映」おや。)

「システム」と「構造」

かねたさんにコメントいただきました。ありがとうございます。

が、せっかくなので、なんかもうちょっと面白いことかいてください。

いま、先に進むのに忙しくてほとんど「論証」っぽいことをしてないので、納得しがたいところも多々あるかと思いますが、たとえば「ここの議論があやしい」とかと具体的に指示していただければ、その都度敷衍しますんで。
ちなみに私が、個々の概念の「外延の一致」については、なにも関説していないことに注意。「言説分析」と「システム論・EM」との比較で述べているのは、概念の編成関係の相同性についてのみ、です。(←念のためのコメント。)
もう少しだけ敷衍すると、私がしているのは、〈言表-と-コミュニケーション〉とか〈言説-と-システム〉とかの比較ではなくて、〈<言表/言説/?/〜>と<コミュニケーション/システム/オー■ポイエーシス/〜>と<指し手/場面/リフレクシヴィティ/〜>〉、といった「概念セット」同士の比較です。
フーコー読みの目から見て私の読解がどんなふうに見えるかは、当然のことながら非常に気になるところです。重ねてのコメントを期待しております。どうぞよろしく。


さしあたり最初の部分についてのみコメントしておくと:

フーコーはそもそも(特殊)社会システム論的な意味でのシステム概念というものは念頭においていなかったと思われ、むしろ彼が認識のベースにしていたのは構造主義的─ポスト構造主義的構造概念であったと思われるので、フーコー的「言説」概念(およびその構成要素たる言表概念)をシステム論的に解釈することはそもそもできるのだろうか?ということが疑問になったりする。

  • フーコーが「システム概念」を念頭においていたか否かは、私の議論(の妥当性)にまったく関係がないです。
    それをいうならガーフィンケルだって「システム」という言葉では発想していなかったわけですが*1、だからといって、〈リフレクシヴィティ/定式化/レリヴァンス/〜〉-と-〈オート■イエー■ス/反省的自己準拠/システム・リファレンス/〜〉が比較できないかといえば、ぜんぜんそんなことはない。(ここに非常に強い相同性をみる私の見解に賛成するかどうかは別として、少なくとも比較はできる。)
    ていうかそもそも「念頭に置いていたか否か」という方位から事柄に接近する、という作法が、フーコーのそれを裏切ってはいないか。
  • しかも、「システム」も「構造」も、論者によって恐ろしく異なる・多用な仕方で使用される言葉なのだから、「システムか、構造か」という問いの立て方には意味がない*2です*3
  • 「そもそもできるのだろうか?」という問いをたてるのは余計。だって、私が実際いまここでやっている(あるいはやろうとしている)のだから、その議論の妥当性のみを問題にすればよいだけのこと。
    ちなみに、私が狙っているのは「言説分析をシステム論的に解釈すること」ではないです。そうではなく──金田さんの言葉につきあう形であえて定式化すれば──「社会システム論-と-言説分析との間には、そこから利得を引き出せる どんな差異があるか」です。


次の段落は、私には問題含みに思える箇所ですが、これについては帰宅してから、ということで。

  • [11] とりあえずぼんやりと考えていることを書くと、このフーコーとシステム論の差異というのは、言説あるいはコミュニケーションの帰属先をどこに設定するのか、という点に存在するんじゃないだろうか?
  • [21] フーコーの場合、言説の帰属先は全体社会ということになり個別のシチュエーションでの発話や会話は言表ということになるが、システム論的にはコミュニケーションはシステムのコミュニケーションとしてのみ記述される。
  • [22] フーコーの言説概念が構造(=社会)全体の言説を示しているのに対して、システム論的なコミュニケーション概念は「全体社会」のコミュニケーションを指示しているのではなく、あくまでもそれぞれの社会システムのコミュニケーションだとして解されている。
  • [23] このような言説概念とコミュニケーション概念との違いが何に基づいているのか、といえば、それはおそらく構造概念とシステム概念の違い、という点に基づいていて、どちらの視座から「社会」を認識し理解するのか、ということが鍵となっているように思う。



【追記】20041113
ひでおさんにもコメントいただきました。ありがとうございます。

■ [MF][Sys]ちょっとゆってみるテスト。

構造主義とシステム理論の間にはソシュールベイトソンをかませてみる。
フーコールーマンの間にはニーチェをかませてみる。
というのでどうよ?
↑は言ってみるテストだけど、テストとしても言えないことはミクシで書いてみるテスト。

一度しかない人生ですので、なにかもっと面白い事をちょっとでもゆってみるテストをしたほうがよいような気もしますが、まぁ他人の人生だからいいと思います。。

*1:さらにいえば、私のように、(特殊)社会システム論に大きくインスパイアされつつも、「システム」という語の使用を自らに禁じている人だっているw。(私がこの語を使うのは システム論に言及する時だけ と な っ て お り ま す。)

*2:にもかかわらず、そこでガンバってブチageちゃったりするお調子者もいるわけだが:ex. ASIN:462302976XASIN:4771002355。意味ないっす。

*3:ちなみに、ぜんぜん関係ないけどついでに述べておけば、構造主義者で(情報-コミュニケーション-科学的な意味での)「システム」概念(や「複雑性」概念)にちゃんと目配りしていたひとの例としては、ヤーコブソンレヴィ=ストロース、ビッグネームふたつを挙げておくのがよいかと思います(ので挙げておきます)。「構造主義」と「システム論」って、そんなに違うもんなんですかね。私には、「大陸」と「北アメリカ」における同時代的-対応物のように思えますが。「構造主義」発祥の地ロシアに生まれ、レヴィ=ストロースに「構造主義」を教え、アメリカでは情報科学者と共同研究していたヤーコブソンのことを考えてみれば.....どうでしょう?。

ネットラジオ

なぜかここで宣伝しろという人が....。(コメント欄参照)
とりあえずURLをコピペっておきます:http://d.hatena.ne.jp/kijiq/20041111

『今夜も電波!』 第17回放送:2004.11.12 (fri) 22:00〜  powered by drumcast
ゲスト:雉さん(id:kijiq)
電話出演:上山和樹さん(id:ueyamakzk)
パーソナリティー:百萬石マツリ(id:idiot817),死に舞(id:shinimai),エスパニョールカスホカトウ(id:kasuho),追加あるかも
企画:深刻20代しゃべり場「社会人って何?」

頂きもの:【ついに】ルーマン『社会の芸術』【ゲット】

帰宅したら届いていた。やっと手にできた(ありがとうございます)。
やー、ほんとに5センチくらいあるよ。すごいなぁ。(でも『社会の法』に比べれば薄い。)
というか いただきものに「やっと」もないもんだが、しかし校正はかなり以前に(略

社会の芸術 (叢書・ウニベルシタス)

社会の芸術 (叢書・ウニベルシタス)

てことでまたしばらく山にこもりたいところだが、『考古学』も気になるなぁ。
ところで背帯、

ルーマン

てw。

『社会の芸術』....(´・ω・`)......

くっそー出遅れた。まだ入手しておりません。

社会の芸術 (叢書・ウニベルシタス)

社会の芸術 (叢書・ウニベルシタス)

というかラジオだが

ただいま聴取開始。
iTune 使ってるひとは、これをクリックするだけで聞ける。

-
ていうかおいおまえら、もいちど自己紹介からやれ。誰がだれだかわからん。



音楽としゃべりの音量差がでかすぎ。

  • 「イギリスですよね....」