XII 「体験への還元」がもたらす科学における機能特定的包摂の特殊性:

この節に出てくるネタ──同僚的平等性(科学者共同体)、(間)主体性と理性のゼマンティク、名声によるサブコード化──って、みんな「体験への関連性」の話なのか? だとしたらけっこうおおごとだなぁ。他の著作ではこういう議論運びをしてるところ、あまり記憶にない。

「体験への還元」がもたらす「科学的コミュニケーションへの参加条件」の平等性

p.320。諸システムに見られる非対称的な役割分業(ex.生産者/消費者、統治者/被統治者、法曹家/クライアント、医者/患者)が 科学においては見られないこと-と-「体験への還元」には関連性があるよね、という話。なんだろうねこれ。

 […]科学においては[包摂(=システムへの参加)の]非常に特殊な条件が見られる。他の機能システムの多くは、その包摂様式を 役割の非対称性を用いて分出させる。だから 経済においては、生産者と消費者が存在する。政治システムにおいては、バロック期への移行過程で 統治者と被統治者の差異が意義をもつようになる。同様の非対称性は、法や医療のように専門業務に依存しているすべての機能システムに見られる。これらの場合には、役割と反対役割、サービス提供役割とサービス享受役割ないし顧客役割が分化し、ここに新しい際立つ点があるのだが、たとえば信仰や身分の所属といった参加者自身の他の諸役割に抗して分化する。
 科学の場合に、第一時的に問題となるのは体験の秩序であって、行為の秩序ではない。したがって 役割の非対称性は、弱いかたちで形成されるにすぎず、いつでも逆転できるという留保のもとにある。支配的な包摂モデルは、同僚的平等、「科学共同体」のモデルである。このモデルの内部では、たしかに、ある者が真理を提起し、他の者がそれを批判すると考えられている。特定の命題へと確定された真理が提起され、しかるのちにそれを真理の諸可能性の緩やかなカップリングの状態に戻すという観点から観察される96

(96) 我々はここで、見れば明らかなように、メディア的基体と形式の区別を踏襲している。さきの第四章 III を参照せよ。

真理というメディアは、それによって、同時に 固定したやり方 再分解可能なやり方 で提示される。そのさい、じっさいには真理というメディアが異なるように見えるというか考えにもとづいて、批判の権限はみずから真理を提起する能力と結び付けられている。だから、真理の提起は表明前に自己批判の段階を経る、いいかえればコミュニケーションは受容の予期について検査される、とも予期される

なんでだろ。 ──この項要再考。

「じっさいには真理というメディアが異なるように見えるというか考えにもとづいて、批判の権限はみずから真理を提起する能力と結び付けられている」とかわけわからん。原文はどうなっておるのか確認のこと。

「理性と(間)主観性」ゼマンティクとその代替物

「名声」によるサブコード化

「名声」は四章 XIII節に既出。

  • p.324 「名声を管理しようとすれば ふつうは保護主義的になるのに、科学においてはそうではない。ここにも科学の特殊性がある」(大意)って、言われてみれば確かにそうだなー。