- [04] I 知識社会学の自己言及性
- [02] II 区別としての観察
- [11] III
- [13] IV 二次の観察
- [08] V 時間次元: 圧縮と再認、システム構造としてのゼマンティク
- [03] VI 社会次元:
- [03] VII 作動と観察の差異
- [04] VIII 「統一性の観察」のパラドクス
IV 二次の観察
体験への還元。p.85
利害関心は、観察と記述の仕方、知識獲得の仕方を特殊化することによって歪曲することがありうる。とりわけ適用領域と接続能力(つまり「真理」によって象徴されるもの)を制限しすぎることがありうる。したがって、それ自体が実現可能な標準的予期との対比で、そのような事態が起こっているかどうかをいかにして認識過程がチェックするのかという問いは、依然として正当である。われわれは「体験への還元」というキーワードのもとで(第三章III)この問いに立ち戻る。この問題もパラドクシカルに定式化して、問題となるのは認識論に利害関心の排除を包含することである、ということができる。
V 時間次元: 圧縮と再認
ゼマンティク。p.91-92
観察と観察が行うことを徹底的に時間化するというこの考え方にしたがえば、その結果として、すべての客体の定常性やすべての記録を相対化しなければならないだけでなく、知識も「所持」したり「保有」したりできるという特質を失ってしまい、そのような永続観念のかわりに、
- 誰が何をどのような条件のもとで現時化するのか
という問いが現れる。それとともに、「何であるか」という問いのかわりに「いかにして選択されるか」という問いが現れる。
…
われわれが折りにふれて意味論について語る際に考えているのは、このことにほかならない。われわれは、この概念について(語の意味とは反対であることを認めざるを得ないが)すべての記号学的含意を捨てて、
- 観察が記述として固定される際に、つまり保存する価値があると認められ反復可能な状態におかれるさいに目印をつけられる点に
焦点をあわせる。われわれが考えているのは、何か他のものをあらわす記号ではなく(…)、コミュニケーションのオートポイエーシスの構造である。
もうねアホかと。だったら「ゼマンティク」は捨てて、なんか違う術語使おうよ ┐(´〜`;)┌
ともかくも、「ゼマンティク研究とはシステム構造の研究である」とは述べられている。
VII
「ターンテイキング」