注文していた2冊が届く。エールリッヒが困窮のうちに氏んだとは知らなかった。
- オイゲン・エールリッヒ(Eugen Ehrlich, 1913)、『法社会学の基礎理論』、河上倫逸+M.フーブリヒト訳、608頁、みすず書房、ISBN:4622017644、1984/01、6,825円
- オイゲン・エールリッヒ(1918)、『法律的論理』、河上倫逸+M.フーブリヒト訳、3,885円、332頁、みすず書房、ISBN:4622017725、1987/10
第1章読む。丁寧な訳注がたっぷりついててたいへんよい。84年には、日本は(というか学術出版界は、というか みすず書房は)これくらいの贅沢はできたんですねぇ。
で、1章集結部にて、先生いきなりの宣言。
従来の法律学によって、[‥] 常に確固として堅持されて来た国家強制秩序としての法の概念から少なくとも三つのメルクマールを取り出すことができる。すなわち、その概念的本質において、
- 第一に、法は国家により制定されたものではなく、
- 第二に、裁判所や他の官庁の判断の基礎でもなく
- 第三に、そうした判断に伴う法的強制のための基礎でもない
のである。しかし、法の概念には、もう一つの、それに基づいて研究が進められるべきメルクマールがさらにある。すなわち
- 法は一つの秩序である、
ということがそれである。 [21-22頁]
この先、これにどうオチを付けるのか。
-
- 法のほうが国家より古い
- 法は制定法よりも広い
という議論はあんま面白くないんで、なんかほかのを ひとつお願いします。せんせ。
第一章では、ほかに、「17〜18世紀の自然法論」を「歴史法学」の先駆として位置づける議論が[14頁](少しだけ)あって面白い。 つか せんせ、「根拠」書いてませんが?
ところでこの著作、学生時代に何度かトライしてその都度挫折してきたのだが、いま読むとそれほど難しいわけでもない。こちらに知恵がついたからなのか。「分厚い本」に気圧されてただけなのか。‥‥というのはともかくとして、初発の疑問──前世紀初頭に、エールリッヒがアメリカ社会科学界隈でどのような受容のされかたをしていたのか──については、訳者あとがきで あっさり謎が解けた。
ちなみに、工ールリッヒの名がわが国で本格的に知られるようになったのは第一次世界大戦後のことであるが、その時期は、工ールリッヒ個人にとってはむしろ不遇の時期であり、しかもその後、年経ずして彼が永逝し、かつ第一次世界大戦によりオーストリアが解体されてしまったこともあって、僅かな例外を除けば、彼が本来の研究活動のとしていたドイツ語圏の学界からその名は急速に忘れ去られてしまったのである。しかしアメリカ合衆国では事態の進展にいささか異なった様相が見られたのである。大戦さ中の1914年に「アメリカ・ロー・スクール協会」第14回年次総会で、渡米不能となった工ールリッヒに代わって、W・H・ぺージが「工ールリッヒ教授のチェルノヴィッツの生ける法ゼミナール」なる報告をしたのを皮切りに、ロスコー・パウンドの尽力もあって、工ールリッヒの論文は次々と英訳公表され、その影響力はむしろ「本国を凌ぐ」形で拡大し、1936年のパウンドの長文の序文を付したW・L・モールによる『法社会学の基礎理論』の英語完訳版の公刊によってその頂点を迎えたのである。ただ、M・ヴェーバー研究についても同様に言えることなのだが、アメリカ合衆国における工ールリッヒ法社会学の受容は、その学問の本質的構成要素となっている歴史的契機を大幅に捨象してしまう傾向をその後、徐々に強めて来たというのが実情であり、したがってその盛名にもかかわらず、工ールリッヒ法社会学の核心部はついに該地では理解されぬままに停まってしまったのである。
ところで、アメリカ合衆国における工ールリッヒの影響力の拡大はわが国の工ールリッヒ法社会学の継受とも必ずしも無関係ではなかったのである。上述したごとく、工ールリッヒの名はすでに大正期には徐々にわが国でも知られるようになって来てはいたが、最初の直接的な接触は1919年の秋に「戦後に於ける中欧の法学界の模様を観察する」ことを主たる目的として「中欧の土地を踏んだ」高柳賢三によってもたらされたのである。1920年の春、苦心の末にスイスで学界初の日本人として工ールリッヒと二時間半ばかり懇談し得た高柳は、その折、『法学協会雑誌』への寄稿を依頼したのであるが、これに答えて早速送って来られたのが、同年鳩山秀夫の手により訳出・発表された「成文法と生きた法律」だったのである。当時の「中欧の法学界の哲学的主潮」を新カント派・新へーゲル派・実証派に三別し、それぞれの代表者をシュタムラー、コーラー、工ールリッヒだと高柳はしているが、そのような工ールリッヒに対する高い評価は当時の「中欧の法学界」にはほとんど見られなかったのであり、それはむしろアメリカ合衆国の法学界に特有のものだったのである。[588頁]
キーマンは、ロスコー・パウンドだった、と。
1章最終段落。
「社会学」についてこんな「夢
人間の社会に関する学問は今日では全て社会科学として把握することができるのであり、そうした学問は、理論的でもあり得るし、単に実用的なものでもあり得るのであって、理論経済学のみならず、実用的な国民経済学(いわゆる Nationanlökonomie)、統計学、政治学もこれに含まれるのである。理論的社会科学全体に対して、百年ほど前から、フランスの哲学者オーギュスコントによって、社会学という名称がつけられて普及するようになった。実際、社会学に特定の意昧内容を与え、全ての理論的社会科学の内容を総括し、いわば社会科学の統一的な「総則」として自立した一個の独立の学問としてそれを把握しようとする試みもなるほどなかったわけではない。しかし、そのような学問的試みがそれ自体としては正当であったとしても、それを社会学と呼ぶことは適当とは言えないのである。なぜなら、そんなことをすれば、理論的社会科学全体をさすための別の名称を見つけねばならなくなってしまうからである。法律学Jurisprudenz という名の下で、従来は法に関する理論的かつ実用的な理論をさすのが常であり、こうしたすでに固定してしまった表現はこれからも保持されることであろうが、しかし法の真の理論、つまり法学Rechtswissenschaft と、実用法律学praktische Jurisprudenz(誤解の恐れのない揚合には単に法律学Jurisprudenz)とを、はっきりと区別せねばならないのである。法は社会的現象なのであるから、あらゆる種類の法律学は社会科学に属することになる。しかし真の法学は理論的社会科学、つまり社会学の一部門なのである。法の社会学は法に関する科学的理論なのである。[22-23頁]
「理論的社会科学」とか言われてますが、第1章の議論をみる限りは、ここで「(科)学」と呼ばれているのは「歴史学」のことである、ということのような。