北村光二「「社会的なるもの」とはなにか?」

7回くらい読んでみたけど結局さっぱりわからなかった。分析が載ってないので再分析もできない。そろそろあきらめる。

承前:id:contractio:20090109 / id:contractio:20090617
  • 北村 光二
    「社会的なるもの」とはなにか?:他者との関係づけにおける「決定不可能性」と「創造的対処」
    『霊長類研究』特集:社会の学としての霊長類学(vol24 No2)
    http://wwwsoc.nii.ac.jp/psj2/reicho/reicho.html
  1. はじめに
  2. トゥルカナにおける強要的物乞い
  3. ブッシュマンにおける食物支配
  4. 他者との関係づけにおける決定不可能性とそれへの創造的対処
  5. おわりに──より基礎的な「決定不可能性」
論文タイトル

多くの読者は私と同じように、まずは タイトルをみただけでかなりたじろいでしまうのではないだろうか。

「Pが不可能だ」というのは「Pでないことは必然だ」ということである(¬♢P ↔ □¬P)が、

ふつう社会科学の文献で 必然性様相のもとで議論が進むことは まずないから、この論文タイトルは十分に驚くに値する。

論文の構造

著者自身が論文中間部[p.115] でおこなっている定式を利用してまとめてみると──:

決定不可能性創造的対処人類学的事例霊長類学的事例
人と人との関係づけにおいて その決定不可能性が顕在化してしまう場合には、次の二つがある:
  1. そのときの関係づけの枠組みが、当事者の間で一致しないとき
  2. 当事者それぞれが指向するゴールが一致しないとき
相互の関係づけの枠組みとして より抽象的で誰もが同意できると考えられるものを採用して、関係づけを実行することによって、当事者双方が納得できる決着を実現する。 トゥルカナにおける強要的物乞い [2節] ニホンザルにおける毛づくろい [4節]
「当事者のどちらもが、食い違うゴール指向性を 両立するものへと調整している」という いつでも正当化できる状態にあることを共同で演じることによって、そこに秩序だった関係づけを作り出すことを可能にする。 ブッシュマンにおける食物分配 [3節]
・付: ブッシュマンにおけるパイプ煙草の回し喫み [3節]
ニホンザルにおける敵対的衝突 [4節]
加えて、次のヴァリエーションがある: 遊び [4節]、儀式的相互行為(マウンティング) [4節]

さて、著者が ある「対処」を創造的 だと呼ぶのは、それが前提からユニークに導き出せるものではないから、だろう。その限りで「決定不可能/創造的対処」という対照的な言葉遣いに謎はなく、何かを「創造的」と呼ぶことを権利付けるのは、──この論文においては──「何かが不可能だ」ということの論証のほうだといえる。そして/しかし、まさにそちらの議論が理解できなかったために、私にはこの論文が理解できなかった。つまり著者が

  1. 「決定」という言葉でもって、何のことを 指示しているのか。
  2. それを指示するのに、なぜ「決定」という言葉を用いるのか。
  3. 「不可能」という言葉で何をいっているのか。

ということが、この論文を読んでもわからなかった。

例: ニホンザルの毛づくろい

まず、4節のニホンザルの毛づくろいの例をみる。これを取り上げるのは、ほかの例よりも、「決定」という語の指示対象がわかりやすいように思われたからである。(改行および付番は引用者による)

決定不可能性創造的対処
ニホンザルの毛づくろいは、一方が誘いかけて他方がそれに応じることによって開始されるのであるが、誘い掛けに相手が応じないということもふつうに起こる(...)。この相互行為は、基本的には、そうするかしないかの選択の自由度が高い他者との関係づけの活動である。[...] そのときの関係づけのプロセスは、相互のそのときの動機付けが重なり合うのか合わないのかという偶然にゆだねられたものとなっているという意味で、本来的に決定不可能なものだと考えられる。[p.115]
  1. このような決定不可能性への対処として、ニホンザルの個体は、他者に毛づくろいを提案するときに、それを受容する可能性が高い個体を選んでそうしている[...]。[...] ただし、そのような関係になければ行われないというのではないし、相手を選ぶとしても、一方の誘いかけに他方が応じないという結果に終わることも珍しいことではない[...]。
  2. そこで実践されている創造的対処としては、決して「親しい関係」という実在するものを識別することによる対応なのではない。[...]
    相手との「関係のあり方」というレベルで、相互の関係づけにかかわる動機づけを重ね合わせようとする可能性が高いという意味の、「親しい関係」にあるか否かということに目をむけ、
    当事者それぞれが「親しい関係」をその場で確認しようとするというやり方で実行されている。
  3. それによって、確認がより難しい組み合わせが選ばれなくなり、確認がより容易な組み合わせでそれが繰り返されるという からくり で、この関係づけがより確実に再現されるはずのものに 見せかけられる ことになるのである。[p.115]

▼左側のセル:

  • この例では、著者は「決定」という言葉で、「毛づくろいという共同作業の関係に入り込むこと」を指しているように読める。
    • ところで著者は、それは「偶然である」ともいう。
      • しかし「偶然である」であるとは、「可能であるが必然ではない(♢P & ¬□P)」ということである。
      • そして本文にも(いやあたりまえだが)、「毛づくろい」が実現「可能」ではあることまでは書いてある。だから、
  • ここで「不可能性」という表現を用いることは間違っている。

▼右側のセル:

  • この段落が全体として何をいうことが出来ているのかを理解するのはたいへんに難しい。
    • まず 1では、毛づくろいは親しくない関係の個体間でも起こるといわれているように読めるが、2.と3.では そちらについての話は消えている。
    • そしてその上で、最初の「毛づくろいの関係にどのように入り込むか」という話が、「親しい関係であることをどのように確認するか」という話にずれているように思われる。
  • 2の主張については、この箇所の記述だけから妥当性を判断することは出来ない。著者が、ニホンザルたちのどのような振る舞いをみて──言い換えると、フィールドで「見ることが出来るようになっていた」どのような現象を捉まえて──そのような主張をしているのかが、まったくわからないからである。(ただしそれ以前に、私はこの文章自体が理解できなかったのだが。)
    • 3.に出てくる「組み合わせ」という表現の含意もわからない。これは毛づくろい関係に入る「個体の組み合わせ」のことなのだろうか?
  • 仮に、3.でいう「組み合わせ」が、(「母と娘」のような)「個体の組み合わせ」のことだとしよう。この箇所でわからないのは、「みせかけ」という表現である。
    • 「みせかけ」というからには、それは「ほんとう」のものではない、と著者は考えているのだろうと推察しつつ、その前の記述をみると、「「親しい関係」という実在するもの」という表現がみつかる。すると、ここで対照されているのは、〈実在するものの識別/関係のその場での確認〉ということなのだろうか。


2.の文章が 日本語の文として理解できないために、私は この箇所について これ以上の読解を続けることが出来ない。ともかくも、著者の「決定不可能」という言葉遣いはおかしい、ということはわかった。(そうである以上、著者の「創造的」という表現のほうも、宙に浮いてしまう。) 他方、この例がどのように「より抽象的で誰もが同意できる関係づけの採用」の例になっているのかは さっぱりわからない。


著者の議論を離れて考えてみれば、──あたりまえのことを敢えて書いてみると──

  • 毛づくろいが開始されるかどうか も、
  • 毛づくろいをするような「親しい関係」だと確認しあえるかどうか も、さらに、
  • 関係の確認のために繰り出される指し手たち も、そしてまた、
  • やりとりの双方によって繰り出される指し手の組み合わせ・順番──つまり、やりとりの実際の推移──も、

どれもすべて「可能ではあるが必然ではない」仕方で実現・実行されるものであるように思われる。著者は、どれも「偶然的」である これらのうちの

  • 最初のものだけを特別扱いして取り出して「不可能」という様相を割り当て、
  • ほかのものには「創造的」という表現を割り当てている

だけはないだろうか。

そして/しかし、これは実際に生じている やりとり の──観察者の観点からの──勝手な分断によって生じる「みせかけ」だけの区別ではないのか。
2節における「決定不可能性」の定式

上記の例をみたうえで 次の箇所をみると、著者が 出来事の様相的特徴づけに関して大混乱を起こしていることがわかる。(改行と付番は引用者による)

  1. 人と人との関係づけは いつでも失敗する可能性がある という意味で、それは本来的に「決定不可能」なものだと考えられるが、そうなってしまう理由の第1のものは、相互の関係づけにおいて、そのときの活動の「枠組み」として当事者のそれぞれが想定するものが、相互に一致する保障がもともとないからである。[...]
  2. [「他者との共同」への強い指向性]を手がかりにすることによって、そこでの関係づけが、たんなる偶然 に支配されて生成する出来事とは区別される、ある程度の確実さで再現されるものになると考えられるのである。[p.112]
  3. [...] そのような対処によってもたらされる出来事は、因果論的決定に従って機械的に再現される出来事ではないが、自らの選択に支えられて繰り返し再生産される出来事である。そのような関係づけによって「社会的なるもの」の領域になんらかの秩序がもたらされることになると考えられる。
  • 著者は、「人と人との関係づけはいつでも失敗する可能性がある」というが、
    いったい何の権利があって・どのようにして他人がやっていることを「成功」とか「失敗」とか評価しているのか、という問題をさておいても、
    しかし、同じ事態は、同じ権利でもって「成功する可能性もある」と表現できるはずである。
    • したがって ここでもやはり、上とまったく同じ指摘が出来る。つまり「成功」は「偶然的」である。


著者の議論を離れて、しかしそれを横目に見ながら考えてみるなら、こうは言いたくなる:

  • 焦点をあわせるべき様相は、一方では 著者が「たんなる偶然」と呼んでいるものからから区別され、他方では 著者が「因果論的・機械的」な決定と呼ばれているものから区別されるもの、ではないのか。

ただ、すると 議論はごく穏当にして凡庸なところに落ちてしまうけれど。つまり、

ここで 著者の「たんなる偶然」という表現を「でたらめ」という言葉で言い換えることができるとすると、

「社会的なもの」の領域においては 事柄は、

  • 「まったくでたらめ」な仕方で推移するわけでもなければ、
  • 「まったく機械的」に推移するわけでもない。

というような。

常識的に考えて、ある事態の達成と・それにいたる過程が「機械的でも でたらめでもない仕方で)偶然的」であることは、やり取りの参加者たちが やりとりを開始し・やりとりを続けることの理由となっている。参加者たちは、何かを成し遂げる見込みがあるからやり取りに参加するというだけでなく、そこに偶然性があるからこそ それに対処しなければならない(ばかりか、そうすることができる(!))のである。
ちなみにルーマンは、この事情を「偶然性はコミュニケーションの触媒として働く」(大意)と表現している(『社会システム理論〈上〉』p.185)。
例: トゥルカナの物乞い

一般に論文というものは、「著者が自分で立てた問いを、著者が自分で解く」という形式をもって書かれるものだろう。だから或る論文の「成否」というものは、一見したところ「理解不可能」であるものごとが、実は「理解可能」なものであることが示されているかどうかにかかっているだろう。この論文(の2節)では、この↓トゥルカナのやりとりが「近代に生きる私たち」──つまり著者と読者──にとって「理解不可能」である[p.111] ことを、著者は 論文執筆の資源としている。

  • ものを乞うてそれを相手が拒否したとしてもその獲得をあきらめない、ないしは、乞われる側が拒否してもその関係づけを打ち切ることが出来ないために、その要求と拒否というやり取りが終わりのないままにいつまでも続く[...]。[p.111]
  • トゥルカナが、ものを乞うてそれを相手が拒否してもあきらめず、その要求と拒否というやりとりを延々と続けるというやり方をしている[...]。[p.111]

たしかに、この例はなるほど「わけがわからない」ものとして読者を印象付けることに成功しているように思われる(そして、その理由は、それが「執拗だから」だろう。)
では「理解可能性」のほうはどうだろうか。その「謎解き」に相当する箇所はここであるように思われるのだが・・・

  1. そのやり取りを延々と続けることによって、両者がそのような「決定不可能」な関係づけのただなかにあることを相互に確認することになる[...]。[p.111]
  2. そのうえでさらに、そのときの活動を動機づけるものとして、当事者たちが共同してその膠着状態を解消しようとするという、誰もが同意できる動機に目を向けるのである。
  3. すなわち、[...] [対立した動機づけを持っているという]ことから目を転じて、通常の対処では解決が難しい困難に直面している者どうしの関係づけという、「人」との関係づけの領域に目を向けるのである。それによって、当事者たちが共同して同じ活動に取り組みつつ両者が納得できる決着を実現することへと、その活動の重心を移そうとするのである。[p.111]

これは、「なぜトゥルカナの物乞いのやり取りは執拗なのか」の理由になっているだろうか。私にはよくわからない。

著者は、「「決められない」ことを相互に延々と確認することは、「他者との共同」の確認のために役立っている」とでも言いたいのだろうか???


ともかくも──論文の書き方としては、ここがもっとも問題的だと私は思うのだが──、著者が、やりとりにおけるどういうところを捉まえて

再び言い換えると、フィールドで「見ることが出来るようになっていた」どのような事柄を捉まえて、
  • 当事者たちが「誰もが同意できる動機に目を向け」なおしたのだ、とか、
  • 「活動の重心を移」したのだ、

とかいうことを実際にしていると考えたのか、読者には、何の判断材料も提供されていない。

つまり、この論文には「分析」がない*。だから再分析もできない。
* このことは 他の事例全てについて指摘できると思うのだが、3節におけるブッシュマンの食物分配のように 研究者によって複数の解釈可能性が提示されている場合には、特に問題的である。


なので、この例について、これ以上の検討はできない。

(以下略)




追記

nabesoさん曰く:

北村・西江はあまり明示していないが、ルーマンの二重偶侑性を下敷きにしていて、それを実際の観察データを示しながら、社会というものをさぐるというスタイル。[...]

http://d.hatena.ne.jp/nabeso/20090108

 北村論文のほうについていえば、そこでいわれている「決定不可能性」が──著者本人のつもりはどうあれ──ルーマンの謂う「偶然性」と関係ないことは、以上の議論で示せているのではないかとおもいます。(「不可能」という言葉で 「偶然Kontingenz」を取り替えることは不可能ですし。)

 ところでもう一つ、上では触れなかった論点について通りすがりに触れておくと。
「トゥルカナの物乞い」事例は、部外者である人類学者が頭を抱えるほどに はっきりと-しかも-執拗に見て取れる(=規定性の極めて高い)社会的秩序であるのでしょうに、著者の視線が、
  • 「この規定性の成立*」という方向にではなく、あくまで
  • 「物乞いの-決着がつく-ことがない(ことによって成員たちはどのような対処を求められるか)」という欠如態へと向かっている
ことも、気になったところです。
あたかも、見えているものを見ようとすることにではなく、見えないものを見ようとすることのほうに価値があるかのよう。
* 「決定可能性」??
はたして、紛争・諍い・喧嘩・トラブル etc.などなど──ルーマンが「(社会的)矛盾」という言葉で指示しているもの──が 著者においては「社会的秩序」の中に入っているのかどうか 関心がもたれるところですが、それはさておき、「ルーマンとの違い」ということでいえば、こうした視線の方向についても指摘できるでしょう。


 そしてまた上述のとおり、北村論文には、著者の核心的な主張が何に基づいているのかを示すデータ、あるいはまたそれに基づいて更なる検討が可能になるようなデータに相当するものは無いように思われました。

西村論文にはデータも分析も示されており、したがって私はかなり面白くこれを読みましたし、また、提示されたデータをもとに著者の主張を検討してみる余地があれこれあるだろうと思ったのですが。

なのでまぁ、「表象的な類似に着目しただけに過ぎず、創造的対処の積極的な証拠に乏し」い というようなコメント↓が出てくるのも無理はないところではないでしょうか。

室山が北村が提示した事例を表象的な類似に着目しただけに過ぎず、創造的対処の積極的な証拠に乏しく、確立論的な振る舞いによっても理解可能ではないのかというのは、佐藤俊樹がDKが広く存在することを認めた上で、DKを社会的なものとすることに慎重であることと比較すると興味深い。

http://d.hatena.ne.jp/nabeso/20090108

「確率論的な振る舞い」と、上で述べたような「機械的でも・でたらめでもない)偶然性」との違いは、──「社会的なもの」の捉え方を、したがって、社会学の構想を左右するような──非常に重要な論点である、と私自身は考えています。

たとえばルーマンの議論であれば、この場所に、〈kontingent / bestimmt〉という区別だとか 「(体験処理の形式 としての)意味」概念とかが登場するわけですし(しかもそれは「社会学の根本概念」だと謂われているくらいで)。

しかし、ともかくも 北村論文のやり方では この論点にたどり着かないことは、上の議論で示せたと思います。

ちなみに上で私は、「社会的なものの学」が焦点を合わせるべき偶然性について、二つの否定をつかった・消極的なやり方でしか議論していません。これを積極的に語るにはもっと強い議論が必要ですが、目下の検討ではそれが必要なかったからです。
室山コメントについても同じことがいえて、いま場に出ている道具立てだけで、こう応えることが出来ると思います:
  • 他個体との関係づけをする際に、諸個体は、なんら「確率論的な」算定などしていない(→これは自明*)。
  • したがって、「当該個体たちが、どのようなやり方でもって実際に関係づけを行っているのか」に関心がある場合には、「確率論的」シミュレーションには意味がない。
    • まったく別のことに関心がある場合には、シミュレーションにも意味はありうる。
      (たとえば、保険計算に意味があるのは、保険会社の主要な関心は、「個々人がその生活を実際にどのような知識や方法によって作り上げているのか」などというところには無いから、である。)
  • 仮に、「(でたらめでも・機械的でもない)偶然性」を「確率論的」にシミュレートでき、そうしたやりかたでもって対象の振る舞いが「理解可能」であったとしても、そのことは、「(でたらめでも・機械的でもない)偶然性」に焦点をあわせた分析の不要性を 意味しない。
* 私たちは、個々の振る舞いにおいて、「可能な出来事の集合」を思い浮かべた上で-その中から-どれかを選択する などということはまったくしていない(どころか そんなことできるわけがない)わけでJK。

追記2

「ダブル・コンティンジェンシー」について:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090624