ルーマン『社会学的啓蒙2』複雑性・合理性

Soziologische Aufklaerung 2: Aufsaetze zur Theorie der Gesellschaft

Soziologische Aufklaerung 2: Aufsaetze zur Theorie der Gesellschaft

論文「複雑性」。これは論文集(1975)に初出*。こいつは何度読んでもよくわかりません。

* id:takemita:19700101。要所要所に「name」オプションをいれといてくれると参照しやすいのだが。(たとえば「出版年」見出しのところ、とか)


6節だてのうちの最終節で、(ルーマンが考える)合理性(と複雑性との関係)について──そしてその中で、「正義」についても──触れられている。

cf. id:takemita:20090309:p2

[...] 複雑性は、その概念上の構造からみて 合理性の[以下に挙げるような]周知のモデルと同等である。

  • 正義は[...]、単なるひとつの価値関係の最大化ではない。
    むしろ そうした[価値]関係たちの関係であった。
  • 経済合理性は[...] 資源を活用して利潤を最大にすることではない。自分の手段の消費を最小限にすることでもない。
    むしろ、消費と利潤の間のさまざまな諸関係を均衡させることである。[...]

いずれのモデルにおいても、合理性は、諸関係の関係づけ の水準で定式化されなければならない。そうであるならば、個々の諸関係において合理的決定が不能であるからといって、合理性そのものがないということにはならない。要は、周知のように、正義の原理にせよ経済性の原理にせよ、原理だけでは決定を下すには十分ではないということである。[...]

  • 真理がそれ自体合理的なのは、因果的ないし相関的な第一次的諸関係にもとづいて事態を説明・予測できるからではない。
    むしろ、そのような諸関係の間のある関係が、合理的とされるのである。
うまり、その諸関係同士を比較するある仕方が、合理的とされるのである。この場合もまた、合理的決定の不能性という不慮の問題がたち表れてきたとしても、それはきちんと処理できよう。

 このように同じことが様々な領域で起きているのは、決して偶然の一致ではない。これはむしろ、社会Gesellschaft システムの複雑性が増大していくのに大して社会的な部分システムが機能的に適応しようとしていることの現われなのである。一般社会理論あるいは複雑なシステムの理論は、[...] この傾向に対応した合理性の要件を、政治・法・経済・科学といった特定の社会的機能領域から独立的に複雑性概念に即して定式化しなければならないのである。 [訳 p.243-244]

[...] 高度な複雑性および構造的な選択性ということに最もよく適合する合理性概念は、多数の選択遂行間の一貫性 に照準を定めたものである。[...] そのさい重要なことは、

  • その都度選び出されたものの同一性ではないし、
  • その都度選び出されたものを不変の価値によって基礎付けることでもない。
  • 否定して捨て去るということが、一貫した仕方でなしうるか が重要なのである。

つまり、〔たとえいま捨て去りたいものであっても〕 次の瞬間には望ましいものとして受け入れられるべきものは、拒絶したり破壊したりしてはならないのである。[p.246-247]

なるほど、『社会の法〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)』第8章「論証」で論じられているのもこうした論点であった。

なので これが、この著作において「論証」が重要なものとして扱われている理由だ、というわけなのだろう。

[...] 多くの決定を下していくことが合理的となるのは、たとえ将来の決定が実際にはどんなものであるかが予期できないにしても、それでもその一貫性が確保できるときである。[p.247]

53 法の方法論においては、このような実践的に重要な縮減戦略について、今日まだほとんど何も語られておらず、もっぱら規範の解釈という内容的釈義的問題だけが取りざたされている。(つまり、正しく解釈され正しく適用されなければならない諸価値そのものが、最終的に合理性を保障するのだと、まだ考えられている というわけである。)[Esser ほかの文献。]
同様のことは、決定論的にやっている つもりのアプローチにもあてはまる。[...] これは、決定の 基礎づけ と決定の合理的統制とを出発点としている。

 以上[意思決定論・組織論・政治学・計画論などにおける]まったく異なる種々の合理性の考え方に共通しているのは、他段階的に手が打たれていくということである。このことを考慮に入れて分析をすすめるならば、諸選択のうちから選択するための諸基準 を、選択の意図(...)から区別することができ、しかもだからといって、選択の意図を「無価値なものとみなす」ことにもならないですむのである。

こうなれば、それは進歩である。とりわけ、マックス・ヴェーバーカール・マンハイムのように、ただ合理性の諸形式を、形式合理性/実質合理性 あるいは 機能的合理性/実質的合理性 というように類別しようとする試み に比べれば、理論上の複雑性はずっと高まるはずである。

これも出てきた。




■目下の関心に関係のない いくつかのメモ

I節

ルーマンの「理論」という言葉の使い方の一例。

[「複雑性」概念を、操作的・分析的にあれこれ定義してみても、] 複雑性概念は、せいぜい操作的に明らかにされるだけで、理論的に明らかにされることはない。というのは、それを理論的に明らかにするためには、〔ただ方法だけではなく〕研究対象そのものの複雑性が取り扱われなければならないからである。[訳 p.218]

「理論」は、「「対象に関する」なにかだ」と言われているように読める。

「正義は理論ではなく規範だ」という主張の場合、少なくとも「正義は、違背があったときにそれから学ぶのではなく、それを棄却し・自らを維持する」とは述べているように聞こえる。双方ともに、

ここには、「対象から学ぶ」「違背があったときには、自分のほうを棄却する」という含意があるのだろう* ──とは推察できるが、その学習・棄却のモメントが どこに・どのように 置かれているのかによって、さらに「理論」についての考え方はあれこれのヴァリエーションをもつだろう。ルーマンの場合、それが どこに・どのように 置かれているのかがまだ私にはよくわかっていない。

ちなみに、もうひとつのモメントは、すぐあとに出てくる「包括的な基本構想にまとめあげる」というものなのだろう。(こちらはおそらく「理論の抽象性」のほうに結びつく。)
* これは、I節の終わりに「非相対主義的」という(ルーマン自身の)立場規定が登場する理由にもなっている。


■参照文献

弁証法と科学 (1983年) (フィロソフィア双書〈7〉)

弁証法と科学 (1983年) (フィロソフィア双書〈7〉)

注17。これは売ってしまったような気がする。


このハーバーマス批判は、基本、これ→id:contractio:20071213 と同じ方向を狙っているように聞こえますな:

VI

[V節までに論じたような仕方で「複雑性」概念を構成すると]伝統的な前提は無効になるし、また理性に依拠しても仕様がなくなる。とくにユルゲン・ハーバーマスは、こうなれば取り返しのつかない損失で、一切を純粋な技術的合理性に委ねることになるのでは と恐れるわけだが、しかしながら、そもそも純粋な技術的合理性といえども、それが「一定の要件を満たすように目的と手段を配置するということ」であるかぎり、そのような[理性・合理性・完全性etc.のような]伝統的な基盤の上では やはり容易に再構成することはできない。つまり、少なくともシステム構造についての仮定を導入することでさらに制限を加えることが出来ないならば、純粋な技術的合理性も再構成できないのである。いずれにせよ、合理性概念は新たに考え直す必要があろう。[p.241]